横八会員投稿 No.322

題名  咸臨丸余話
投稿  伊藤 博 (7組)
掲載  2009.03.28

歴史探訪
              咸臨丸余話

咸臨丸の大平洋の踏破は、我が国近代化の黎明期における歴史に残る快挙である。
しかし、その乗員のその後の消息については必ずしも全てが明らかではない。

そこで、「咸臨丸の子孫の会」が鋭意この調査・研究を進めているが、この度、S会長より乗員に関する
従来の説を覆す新事実発見の朗報を頂いた。

咸臨丸の全乗員96名の中で、これまで米国で脱走(?)したと思われて来た3名の中の一人・瀬野昇平と
いう人物が、実は
18607月に帰国していたという事実が佐柳島の乗蓮寺の扁額の記録で判明した経緯である。 
残る2名の今後の調査の成果を期待すると共に、返礼の感想を添えてご紹介する次第である。

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[S会長より来信]

大発見です。
咸臨丸渡米時の乗組員が新たに一人判明しました。

私たちがサンフランシスコ近郊のメアアイランドで脱走した乗組員と思っていた瀬野昇平(昌平でなく)が
ちゃんと乗組員として
18607月に塩飽に帰っていることが、 佐柳島の乗蓮寺の住職夫人松原末子さまから
送られてきた扁額のデジカメ写真で昇平の履歴がわかりました。

これまで咸臨丸の乗組員は96人とされていますが、この人を入れてもまだ94人が判明しただけで、残る2人は
勝海舟の従者とメアアイランドでの脱走者となることがはっきりしたといえます。


詳しくは、別添をご覧ください。
瀬野昇平は浦賀の鳳凰丸乗り組み、長崎海軍伝習所一期生、観光丸、咸臨丸、蟠龍丸に 私の曽祖父・
濱口興右衛門と一緒でした。

これはさる28日の第11回総会で冨蔵の曾孫・鈴木博之さんに乗蓮寺の住職の住所と名前を教えてもらい、
総会後私が咸臨丸乗組員の名簿を添えて、あの扁額に何が書かれているか問い合わせていたことに対する回答が
1カ月以上たって321日きたものです。
ともかく、これは数年前、塩飽諸島佐柳島を訪問したことがきっかけで判明した新たな歴史の1ページです。

ご感想をお聞かせください。

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瀬野 昇平 履歴

これは塩飽諸島佐柳島の乗蓮寺の扁額に書かれた瀬野昇平の履歴である。
2009
321日、乗蓮寺住職の松原末子夫人が娘さんの撮ったデジカメ写真4枚を郵送してくれたものを
私が翻刻したものである。

佐柳島出身の水主・富蔵の子孫である鈴木博之氏(千葉県在住)が
200928日の咸臨丸子孫の会
11回総会で同寺の住職の名前と住所を教えてくれたおかげで、私が扁額に何が書かれているかを
問い合わせた。それに対する回答である。

1カ月以上待ちわびた書状が届き、感謝感激である。
住職は胃がんのため入院中で、奥さんも「
80歳を過ぎて病人の介護はとても疲れます。
おかげで
2月末退院しましたが、時々通院しています」とのこと。

瀬野昇平は松原末子さんの祖母の兄に当たる。
つまり、松原末子さんは瀬野昇平の妹の孫である。
なぜ瀬野昇平の扁額が乗蓮寺に掲げられているかのナゾが解けたわけである。

これで渡米時の咸臨丸乗組員96人のうち、これまでカウントされていなかった塩飽水主が一人増えたものの、
依然として
2人が不明で、判明しているのは94人である。

サンフランシスコ郊外のメアアイランドで咸臨丸が修理中、ひとり脱走者が出て、これまでカウント
されていない瀬野昇平がその人かと仮設を立てたが、この仮設は見事に否定された。ともかく、
不明の二人は、勝海舟の従者と、メアアイランドでの脱走者と思われる。


瀬野昇平は佐柳島の出身者なのかどうかは、これからの調査にゆだねられるが、この由緒書によれば、
浦賀で建造された鳳凰丸に塩飽から水夫として乗り組み、長崎海軍伝習所一期生として観光丸で伝習を受けた。
さらに幡龍丸、咸臨丸に一等水夫として乗り組み太平洋を横断、
7月に帰国していることがわかった。
その後、朝陽丸で小笠原島の開発に三回参加、北海道・松前、千島国択捉(エトロフ)にも航海している。


濱口興右衛門とは、鳳凰丸、長崎海軍伝習所一期生、咸臨丸、幡龍丸で一緒に乗り組んでいる。
いままでなぜ瀬野昇平の名が出てこなかったのかがかえってナゾである。生年・没年はこれから調べる。

                   (2009323日  S記)

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【瀬野昇平 由緒書】

安政二卯(1855)年二月、相州浦賀ニテ御製造相成鳳凰丸御船ニ相勤め候処御船辰(1856年=安政三年)
三月御囲船ト相成候
ニ付其節浦賀御奉行所○○○     殿ヨリ塩飽水・・・・・・・・。

同年1121長崎に於ける阿蘭陀ヨリ徳川公ニ献貢ニ相成候観光丸・・御船ニ乗組み阿蘭陀伝習相受け、
一等水夫相勤め候 其節軍艦奉行永井殿、船将矢田堀景蔵殿ニ御座候 
安政4年巳年丑三月四日長崎出帆、
四月二十六日江戸着船致す
(注=濱口興右衛門が観光丸で帰京したのと日付は一致している)

安政五午年七月英吉利西ヨリ徳川公ニ献貢ニ相成幡龍丸御船ニ相勤候伝ニシテ船将ハ榎本釜次郎殿ニ有之候。
安政六未(1859)年ヨリ咸臨丸御船ヱ一等水夫相勤、船将ハ勝安房守殿ニ御座候。

安政七申(1860)年正月咸臨丸御船ニテ米国桑港ヱ洋航、仝年七月本国ヱ帰船。
船将ハ勝安房守殿ニ御座候
 万延元申(1860)年朝陽丸御船ヱ一等水夫相勤、船将ハ伴鉄太郎殿ニ御座候。

文久元酉(1861)年朝陽丸御船ニテ小笠原島開発御用三航海相勤候、船将ハ小野友五郎殿ニ御座候
文久三亥(1863)年徳川公御上洛ニ付朝陽丸御船ニ相勤、船将ハ荒井勝五郎殿ニ御座候
元治元子(1864)年六月江戸ニ帰船相成ニ付大江丸小頭仰せ付けらるに徳川公之御供船ニテ帰港。
仝年十二月御暇賜り夫ヨリ松山侯所有蒸汽小ト夫丸エ乗組み、慶応三卯年二月十三日迄右船ニ相勤め申し候。

明治元辰(1868)年御維新ニ移り、朝庭ニ御引渡しニ相成り候ニ付・・シテ明治二巳年正月迄右船ニ相勤め、
夫ヨリ御暇賜り帰島候所、備前候ヨリ御雇ニ相成、士族御取扱ヲ以て新田様之内給録トシテ弐拾五石下賜、
鐘山丸船長仰せ付けらる。


明治七年迄右船ニ相勤め申し候。
仝年十月右船運送社に売り払いニ相成り候ニ付候処、郵船妊婦丸ニテ雇入運転士相勤め航行、度々・・
仝年静海丸運転士愛勤め、仙台石巻エ貢米積船航海二度船長坂円二段御座候
明治八年一月二日橘龍丸運転士ニテ佐賀暴徒・・トシテ九州及び四国海航朝廷御用相勤め候。
船長ハ本多貞三郎殿
御座候。

仝年四月四日御用鮮相成、東京帰船候処、直台湾御用船仰せ付けられ、長崎上台湾
二度航行仕候。


明治九年三月暇賜り、同十年四月二十四日栖原宿ニテ西洋形造船ニ付・ 雇入同船ハ千島丸ト号ス。
松前エ航行候処、越前国浪松村濱ニ難風ニテ乗り揚、該船ヲ解造シ船名改正金剛丸ト称シ、
千島国択捉ニ航海ス。


明治十八年二月迄同船船長相勤め候処、該船売却相成り候ニ付休業ス。
明治十九年一月二十八日西川貞二郎所有船第四同福丸船長相勤め、明治二十五年十一月二十五日迄同船
ニ乗組み候処、不幸ニシテ北海道根室国布砂納岬沖ニテ難風ニ際シ遂ニ破船ニ及び、依って帰京休業ス。
 
明治二十六年一月 日中村三乃丞持ち船風走、観晃丸船長となる。


          明治二十七年二月二十三日

                          瀬 野 昇 平

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[返信]

S様

拝復 第1級の資料で文字通りの大発見だと思います。
常に探求心を失わずに、信念をもってご努力を継続されていれば、必ず思いもかけないときに結実するという
好例でしょう。

貴仮説が正しい方向に修正・検証されたことになり、おめでとうございます。残る疑問も引き続き、
アンテナを高く張り巡らして、史実の空白を正確に埋めて頂くよう期待しています。


それにしても、咸臨丸から「脱走」(?)したとされている残る2名につきましては、その表現に多少の
疑念を感じています。
言葉も通じず風習もまるで異なる当時の米国で、例え脱走しても生きる術は皆無であることは火を見るよりも
明らかですから、敢えて脱走などするでしょうか?


私の単なる推測ですが、何かの事件に巻き込まれて(落命したか、または)帰艦出来なくなったと見る方が
ありうる話のように感じます。
当時の米国の治安は今とはかなり違い、その頃のNYの混迷の事情は映画化もされていますが、米国の何処の
港町も同様の治安の悪さであったと推測されます。

新天地を求めて来た移民の中にも、多数の人々がその犠牲になった可能性は高かったと思われます。

従って、咸臨丸の乗組員に敬意を表し、「脱走」という記載は、「行方不明」とするのが正しかろうと思われます。
その根拠は更に丹念に記録と史実をたどる以外にないようですが・・・・。

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