横八会員投稿 No.308

題名 歴史探訪  古時計を巡り
投稿 伊藤 博 (7組)
掲載 2009.01.10


歴史探訪

               古時計を巡り

本年は新年を快晴で暖かな熱海で迎えたが、新春早々から思わぬ大きな発見があった。

関東総鎮守の伊豆山権現の境内に隣接する熱海市立伊豆山郷土資料館には平安・鎌倉・室町期に
わたる古文化財の内容の濃い逸品が展示されている。

そこに、他の展示品とは時代も趣も異にする一つの古い柱時計)がある。
もし館長の説明を聴かなければ、その物語る背景の重要な史実との関係を見逃すところであった。

この古時計(アメリカ・ウエルチ社製)こそ、約150年前の江戸末期万延元年(1860)、
幕府軍艦「咸臨丸」で艦長勝海舟以下90余名とともに日本人初の太平洋横断を成し遂げた人物の一人で、
軍艦奉行木村摂津守の従者役として乗船した下野壬生藩士・斉藤留蔵(後に森田忠毅と改名)が
持ち帰ったアメリカ土産なのである。
                
                 下写真

                  

咸臨丸には、慶應義塾を創設した福沢諭吉も同乗していたので両者が親交を結んだことは言を待たない。

明治33年(1900)留蔵が晩年の福沢を訪ね、40余年前の咸臨丸渡米を懐かしみ、ゆっくりと
話を交わし、その時福沢が留蔵に贈った署名入りの写真が残されている。
                           (「福沢先生を偲ぶ」(木村芥舟・時事新報)
       
                  下の写真  
           
折しも、昨年は慶應義塾創立150周年記念にあたる。この記念すべき節目の時に、福沢諭吉と壬生と
を結ぶ太い絆があったことを知り得たことは欣快に耐えないところである。

斉藤留蔵は安政2年(1855)11歳で江川太郎左右衛門(幕府代官兼鉄砲方)の塾に入門。
咸臨丸に乗船した時は若干16歳。冬の北太平洋の荒波に翻弄されつつ37日間を経てアメリカに
到達した大冒険の状況を日記・「亜行新書」に正確な記録を残している。
 

更に、その後留蔵は、明治4年(1871)近代国家像を希求するための幕末・維新期最大(総勢107名)
の遣外使節である「岩倉使節団」(特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、
山口尚芳)の同行留学生として、元壬生藩知事・鳥居忠文(法律学)とともに海軍の海上砲術研究と
して参加し、また農業大学でも学んでいる。(この時の留学生の中には5人の女子あり。津田梅子は最年少8歳)
 

留蔵は、帰国後韮山で日本初の牧場経営を行い、明治19年5月伊豆山七尾原に移った。
この古い柱時計はそこで使用されていた縁で伊豆の郷土資料館に安住の地を得て、今なお歴史の時を
刻み続けているのである。

この史実は、平成16年(2004)壬生町立歴史民族資料館で開催された特別展、「壬生のサムライ
太平洋を渡る」―咸臨丸渡米から岩倉使節団へ―(主催、壬生町、壬生町教育委員会)の資料に詳しく、
第一級の資料である。

以上に関連して、1月10日〜3月8日、上野の国立博物館表慶館と本館において、「未来をひらく
福沢諭吉展」(東京展)が開催される。
福沢諭吉の思想と活動を振り返り、様々な角度から諭吉に光をあててその現代的意義を探る7部構成である。
一見に値するので是非高覧をお薦めする次第である。

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2009.01.11 着信寄稿を続にて掲載します。

歴史探訪

        (補足)咸臨丸の渡航日記あれこれ

咸臨丸の乗船者の中で渡航記を記した人が15余名いた。それらを集めた「資料集成」にも載って
いないものがあった。
それが先にご笑覧までに送付した、高校同期会のHPに寄稿した拙文・歴史探訪「古時計を巡る」
にて紹介した壬生藩士・斉藤留蔵(後の森田忠毅)の自筆本「亜行新書」(森田哲郎所蔵、)であり、
壬生町立民族資料博物館の地道な調査活動が実り新たに発掘されて、2004年開催の「壬生の
サムライ太平洋を渡る」展(主催・壬生町教育委員会)に間に合い公開されたものである。

慶應義塾図書館にも、勘定組頭として同乗した森田清行の記した「亜行日記」が所蔵されているが、
両者は著者の姓名と日記の名称が似ているが別物である。

前者は、太平洋横断の実態を率直に記してしているところが注目される。後年、勝海舟の「氷川清談」や
その他の人により、咸臨丸はアメリカ人の助力なしで航海したように喧伝されているが、留蔵の日記
には荒天の厳しさに音をあげ、アメリカ人の助けでようやく凌いでいる様を記録している。
これは同行したアメリカ海軍ブルック大尉の航海日誌とも一致する。

後者の日記では、ワシントン上陸時の迎船フィラデルフィア号の中で一行がアイスクリームを饗応
(最初にアイスクリームを食べた日本人)されて、その美味に驚嘆した様子などが記述されている。

軍艦提督・木村摂津守の従者として随行した福沢諭吉は渡航日記を残していないが、帰国後に記述した
短い客観的な報告書が知られている。サンフランシスコの歴史、気候、建物、衣食、物価、交通、
蒸気機関車などを簡潔かつ的確に纏めたもので、抜群の把握力を伺い知ることが出来る。

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2009.01.12 着信寄稿を続にて掲載します。

歴史探訪            二つめの古時計

咸臨丸で持ち帰ったアメリカ土産の柱時計がもう一つあった。

このHPをご覧になった敬愛する二人の先輩が偶然ながら「咸臨丸子孫の会」と関係があり、
掲載された新聞記事を付してお知らせを頂いたものである。

平成18年2月に東京千代田区で開かれた「咸臨丸子孫の会」(会員145名)の総会で披露されたもので、
イングラハンス社製、針は3本。文字盤は時刻のローマ数字と日付を示すアラビア数字

乗組員でこれを持ち帰った浜口興右衛門は、帰国後に石巻市に嫁いだ妹「ふく」への結婚祝いに贈ったとみられ、
現在は同市に住む「ふく」のひ孫が保管している。

浜口の子孫は横須賀市で暮らしていたため関東大震災に遭遇したが、幸い焼け残った貴重な遺品である。

単なる「点」に過ぎなかった史実が、このHPを通して紡がれて「面」となって広がってゆく。
この意義は素晴らしいことではなかろうか。深謝に耐えない。


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