横八会員投稿 No.303

題名 歴史探訪、「畳塚」の語るもの
投稿 伊藤 博 (7組)
掲載 2008.12.19

        歴史探訪,「畳塚」の語るもの 

歴史探訪       「畳塚」の語るもの        

徳川幕府の終焉を描いたNHK―TV大河ドラマ・「天璋院篤姫」が好評裡に終了した。
ものごとは「始め」が在ればこそ「終わり」がある。そこで、徳川幕府創成の前夜に遡って、
その「始め」を訪ねて併観するのも、徳川という時代の「開府」と「終焉」の背景を通して
現在を理解する縁になるかもしれない。

徳川幕府開闢以来、二百数十年年間の幕藩体制を支えた武士の倫理規範は儒教。
中でも「忠」の行動規範は最も重んじられた。それを示す物証が、下野・壬生城址・本丸跡
の精忠神社の裏手に祀られている「畳塚」の碑である。

豊臣秀吉の死後、天下の政権は五大老筆頭の徳川家康に移らんとしていた。
それを阻止しようとする豊臣方は、密かに東西の豊臣恩顧の武将が呼応して関東の家康方を
挟み撃ちすることを計った。家康が、上洛の要請に応じぬ会津の上杉景勝の征伐に北上した
その虚を突いて、五奉行の一人・石田三成が策す毛利輝元を盟主とする豊臣方の連合軍が兵を
進めた。

もとより家康は事前にこの策謀を察知していたので、上杉征伐に先立ち西方の軍勢を押さえる
ために、家康の居城・伏見城の留守居役を、最も信頼の厚かった鳥居彦衛門元忠(徳川十六神将
の一人)に託したのは苦渋の選択であった。留守を守る僅かな手勢では西軍の大軍に敵せず、
落城は必定であった。

この伏見城の攻防戦は、天下分け目の関ヶ原の前哨戦として史上に良く知られている。

鳥居元忠の父・鳥居伊賀守忠吉は、家康の人質時代は侍総大将として岡崎城を護り、徳川旗揚げの
秋のために密かに軍資金を蓄財して家康の帰城に備えた譜代の忠臣。その嫡子・彦衛門元忠は幼少
より家康の小姓として人質時代を共に過ごし、長じては勇壮無敵な武将として家康の影のごとく
身命を賭して進退を共にした股肱の臣であった。

上杉討伐の出陣前夜には、家康、元忠は二人きりで過ぎし日の想い出に浸り、今生の名残・決別の酒を
心行くまで酌み交わし、家康は泣いたと伝えられている。

元忠は家康の期待に良く応え、伏見城を取り巻く西軍九万三千七百の大軍を相手に、僅か二千の精鋭で、
西軍が予測した六日を超えて十日間におよぶ奮闘の後、ついに落城した。その敗因は、西軍が城内の
甲賀衆の家族を人質に取り、内応せねば家族全員を磔にするとの脅しに折れた裏切りによる城内の放火
であった。

しかし、この攻防戦が長引いたことにより、東軍は北伐から折かえす時間稼ぎとなり、これに続く
関ヶ原の戦いの東軍の勝因となった。

従って、歴史に「もし」は無いが、父・元吉の軍資金の準備と伏見城の元忠の奮闘がなかったならば、
徳川幕府の成立はありえず、歴史は変わっていたと史家は評価している。

この二者を貫く共通のものは、主君への惜しみなき「忠精」であった。

「元忠は是、内府(家康)に代わり上将の権をとる。あまつさえ、無双の忠死を遂げたり。
内府の命に代わりて没すの志あに感ぜざらんや」と悼んでいる。

元忠が伏見城で自刃した時、したたる血潮が下の畳を血染めにし、この畳は幸い焼失を免れた。
家康の命により江戸城に送られて、「元忠の精忠を範とせよ」と大手門櫓上に安置して、徳川幕府
二百数十年の間、維新に至まで諸大名の登城の折その都度その下をくぐらせてその忠誠の偉業を偲ばせた。

幕府崩壊後に壬生藩がこの血染めの畳を引き取り、壬生城本丸跡の元忠を祀る精忠神社の裏手に
これを埋めて、由来を碑に刻み今に伝えているのが「畳塚」なのである。

元忠の「忠精心」を伝えるエピソードはこれに止まらない。

武勇絶倫であった元忠に、秀吉が叙爵を授けて任官を誘ったが、

「大恩在る主君(家康)に忠誠を尽くすのが本分。例え天下の太閤殿下のご意向なれども、我二君に
まみえず」として堅い鉄心を示し辞退した話は有名である。

秀吉はこれに、「さすがに内府。良い家臣をもって羨ましい」と感じ入っている。

又、元忠は志操高潔の士であった。家康が元忠の数々の勲功を軍賞の法に任せ感状を出すと伝えた
ところ、これを堅く辞退して曰く、

「武士の中には感状を以て世に鳴らし、他君に仕える時にこれを証跡として録を貪るものあり。
我は子々孫々共に二君に仕える意志は毫末もなし。我が武功は主君のみが承知していればそれだけ
で十分。

感状など不要」
そしてまた、

「主君の一番の側近である者が感状など貰えば、優遇されているとの依怙贔屓や妬みの憶測が家中に蔓延し、
家中の盤石の結束にヒビが入るのを恐れるからである」とも言っている。正しく忠誠心の極みの発露である。

「忠」も時代の流れにより、その意義と重さに変遷が観られる。

下克上の戦国時代には、「忠」よりも「一所懸命」に賭けた「ご恩と奉公」で実質的な恩賞を前提とした
功利的なとらえ方で武将は命を賭けた。

江戸太平の世になると与える恩賞の地も枯渇して、家臣結束のタガを締める「忠」はより抽象的で精神性の
高いもの、「主君に無条件に献身の美徳」に移行せざるをえなくなった。武家諸法度に基づき「忠」の倫理に
反する行為を厳しく取り締まり、改易・断絶の鞭で幕藩体制を維持する以外に方法はなくなったのである。

幕末にいたり、幕府のほころびが一層目立つようになると、「忠」の概念も一時ゆらいで、将軍に刃向かう
倒幕にまで進展した。徳川幕藩体制の開府の基礎は「忠」であったが、幕府の崩壊は幕府への「忠の不在」
であった。
 

明治政府は天皇への忠誠・「臣民は天皇の赤子」に衣替えして、大戦前までの帝制国家の基本倫理とした。

そして、その残滓は戦後の経済成長期に息を吹き返して、一蓮托生の所属する企業への忠誠心が喧伝され
企業戦士を鼓舞したが、その実態は不況に対しては脆く、安易に無情なリストラが蔓延し、企業の社会的
責任と忠誠心の本質的意義が問われている今日この頃である。

はたして元忠の畳の血潮は、現状をどう見ているのであろうか。歴史上の動きの「始め」と「終わり」の
節目を考察すると学ぶことが多い。

因みに、伏見城落城で元忠を始め共に自刃した多数の忠臣の血潮で塗られた床板は、その後供養のために
京都の源養院、宝泉院、源光庵、正伝寺、宇治の興聖寺等の多数の寺の「血天井」となり今に昔を偲ぶことが
出来る。

落城で焼け残った伏見城は解体されて遺構の一部が名刹等に移築されたが、その正確な位置は現在の桃山
御陵の中現在ある伏見城とは場所も建物もまるで異なるものである。

                               真如堂にて

  
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