横八会員投稿 No.231

題目  剣鬼の最期を巡って
投稿  伊藤 博 (7組)
掲載  2008.02.18

         剣鬼の最期を巡って


事実は小説より奇なり。歴史上の人物が、通説ではしかるべき年に亡くなったと伝えられていたが、
実はその後も生を永らえていたという話は、義経のジンギスカン伝説のように、その類例は偶に耳にする。
大方は判官贔屓で歴史にロマンを求める思いに起因しているのだが、幕末の志士
坂本龍馬を斬ったと
される佐々木只三郎の最期についてもこれに似た話がある。


通説では、京都見回組与党・佐々木只三郎は、龍馬暗殺後に『慶応四年(1868)正月三日に鳥羽伏見
の戦いに四百人の見廻組を率いて参戦。

一月六日の戦いで銃弾が当たって紀三井寺に逃れ、ここで亡くなった』とされている。

ところが、作家の故・峰隆一郎が『剣鬼 佐々木只三郎』の後書きの中で、『会津剣道誌』にある記載
から引用して、只三郎が実は明治二十年まで生きていたと書き残しているのである。

確かに、当時の時代背景を考えれば在っても不思議ではない話である。

薩長聯合に重要な役割を果たした維新の功臣・龍馬を斬った人物ともなれば朝敵である。
名を変えて別の人物になり切らなければ、誅されて明治の御世に生き残ることは難しかったのかも
しれないと推測され、新史実発見のロマンの薫りが漂う。
そこで手がかりを求めて少々当たってみた。


まず、龍馬暗殺の詳細につき、龍馬と同時代に生きた維新の功臣谷干城並びに田中光顕が書き残した
それぞれの「龍馬の最期についての聞書」を通読し、生々しい凶変の現場の状況を把握することから
始めた。


次ぎに、作家峰隆一が挙げた出典である国会図書館所蔵の『会津剣道誌』(会津剣道誌編纂委員会編、
昭和43年11月刊)をつぶさに紐解き、「精武流の達人佐々木只三郎が明治二十年(1887)
手代木家の援助で東国に遊学中病死
」と記載されていることを確認した。


更に、この剣道誌の元典となった『佐々木只三郎伝』(高橋一雄編、史傳研究所。昭和13年12月刊。
この書籍は国会図書館にも所蔵無く、会津若松市立図書館にのみ所蔵。禁帯出)に遡って調べた結果、
次ぎの3点の事実が判明した。
即ち、

 T.その関連の記載部分を抜き書きすると下記の通りである。

  (只三郎夫人は実子を伴って故郷紀州に帰り再縁したものの如く、永らく所在不明であったが、
 
 [高は明治二十年頃]手代木家の[探索により漸くその所在が判明し、その]世話で東京へ
   遊学に出たが、二十年
[七月、脚気昂進して二十一歳
を以て]没した。
    以上の文章の主語である実子「高」を只三郎高城と読み替えて、更に、赤字の記載部分を抜かして
  (緑の部分のみ)読む
、『会津剣道誌』
の記述部分と符合する。

 U.紀三井寺滝之坊の遺碑(これは、弟の源四郎や実子高の名入りなので、ずっと後に作られものと
   推測されるが)には、(表)に賢浄院殿義岳亮雄
居士(裏)に慶應四年正月六日 旗本 俗名 
   佐々木唯三郎高城(これは
紀州の寺僧が只三郎とすべきであった間違い) 
   行年 三十四歳 
に加えて、弟・源四郎高嶽の戒名(蓮池院殿清光日実居士)と共に、実子
   高(戒名無し)が明治二十年七月 行年二十一歳 と刻まれている。

  戒名の命名原則がこの時代にはかなり緩んで、400石扶持の旗本でも院殿が与えられている
   例が多く見られる。
   しかも京都見回組与党の時は
1000石取りでもあったので、この戒名は不自然ではない。

 V.只三郎の出身地である会津若松にも、只三郎が明治二十年まで生存したことを知る人がなく
   信憑性に乏しい。


以上の考察から得た結論は、只三郎の明治二十年までの生存説は、作家峰隆一郎が実子「高」に
関する記録を高城と勘違して読み間違いた可能性が大
であろうと推測され、史実はやはり通説通り
であったと見てよいようである。

今後、更にもしこれに関する新事実が出てくれば、ロマンの追求を継続することは吝かではない。
今回の検証にあたり、学寮・吉田章一先生、房総半島会津藩士顕彰会事務局長河野十四生氏、
会津若松市立会津図書館坂内氏のご協力を頂いたことを
深謝したい。

                             以 上

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