横八会員投稿 No.202

題目  鉄道博物館を見てきました。
投稿  近藤礼三 (6組)
掲載  2007,11,02


10月31日(水)東京千駄ヶ谷駅前の津田ホール午後6時開演の音楽会のチッケットを貰いましたが、
音楽会だけで上京するのは交通費が勿体無い。
そこで当日は朝の湘南新宿ラインで大宮まで足を延ばし(大宮まで横浜から1時間の時代ですよ)、
10月14日にオープンしたばかりの鉄道博物館を見て来ました。

修学旅行でお馴染みの東京神田の鉄道博物館が手狭いで老朽化、世界に冠たる鉄道技術を持つ
JRの威信を兼ね、国内最大級いや世界にも誇る近代的な鉄道博物館が大宮の旧国鉄の操作場の
一角に誕生しました。

数年前の万博同様に大人気、土日祝日は超満員で老人はゆっくりと見物どころではないでしょう。
鉄道が大好きな私は老人の特権のウイークデーこそチャンスばかりひとり出掛けました。

なるほど、規模の大きさ、展示物の立派さはさすが、我等の年代は鉄道の歴史と共に育ったようなもので、
展示物の多くの現役時代の颯爽たる記憶が我が脳裏に刻まれています。
しかし現在の鉄道のスローガンは高速化、つい数年前までは最先端の現役のぱりぱりであった機関車や列車も
時代の波には逆らえずにお蔵入り。
なぜかわが身を摘まされるような気分でした。

鉄道博物館の展示物の詳細はホームページをご覧下さい。
ただ私がご多分に漏れず長年の習性で気になった点もあり数点あり下記に記しましょう。

その1、 オープン間もないため失敗があっては一大事と案内の人が多く至りつくせり。
      当日は平日なのに博物館専従、本業からの借り出し、アルバイト、ボランチアを合わせ
      200人を越える大サービス。この勢いがいつまで続くのかなと感じました。

その2、 博物館全体は巨大な体育館構造の建物です。
      天井を眺めても空調設備は見当たらず。本当に無いのかな、まさか、とは思いましたが。

その3、  愛知万博の食事の悪評を繰り返すまいと勉強したのでしょう。
         (愛知万博は弁当持込禁止、食堂は料金ぶったくりで最大の汚点でした。) 
      
      当博物館は さすが国鉄長年の伝統でレストランは日本食堂、往年のメニューも加わり値段も納得、
      人気は上々ですが、休日の昼食時はとても裁けそうもありません。
      別に2階にビッフエもありますが、鉄道といえばお馴染みは日本食堂か帝国ホテルで新参者は
      何となく物足りません。
      そこで一番実用的なのは、大宮で駅弁かコンビニ弁当を購入しお持込みを推奨します。
      館内の4両編成団体休憩用の客車の中か(団体が少ない時は一般に開放)、他に休むところも
      あり家族で弁当を広げるのが一番です。

私のデジカメショットの数点をご覧下さい。

                     覚えてますかこの風景、
 鶴見線はつい数年前までこれでしたね。      窓と座席の配置がなぜか合いません。
                                木の背もたれに懐かしい網棚です。
 

                このスクエアーが一番の呼び物です。

       

 ミニ鉄道模型のオンパレード、中央の巨大駅、御馴染みの列車が始発から終電まで次々に発着します。
    

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付、私の記憶に残る鉄道史3話

1、 私の幼少時の記憶では横須賀線は本来は電車でした。
   ところが昭和19年〜22年、戦時末期から戦後の荒廃時期に掛け、横須賀線を電気機関車が
   牽引していた記憶があります。
   当時の電気機関車は前後にデッキのあるタイプが主流で、デッキに乗客が乗っても黙認のようで、
   普通の客車には乗らず、わざと電気機関車の後のデッキに乗り得意になったり、中には機関車の
   前のデッキに乗り、強風に曝され大得意になっている人もいました。 
   良くもまあ、許したものですね。
   そして車両も暫くは連結器の幌も無くドアーは手動、走行中に車両を飛移ったり、走り出してから
   飛乗り、止まる前に飛降りたりするのを自慢している人が周囲には沢山いました。
   人心は荒廃していた時代でしたが、茶目っ気は失ってはいなかったようです。

2. 京急久里浜線
   昭和20年代、堀の内から先は浦賀線が主線で久里浜線は単線の支線で車両は主線を引退した
   おんぼろ車両の1台編成でした。
   堀の内を出発、旧名井田の北久里浜駅まではスローペースですが、当駅を過ぎ終点久里浜までは
   田圃の中の一直線、運転手も得意になり一気にピードを上げます。
   我等が小学生時代、当時の車両の運転席は左側の1/3のコーナーを仕切っただけで、中央と右側は
   お客の領分のため、中央は子供達の定位置でした。
   
   そこで我等の仲間は、堀の内で久里浜線に乗り換えるとまずこの定位置を陣取り、中央の上げ下ろし
   式の窓を上げます。
   北久里浜駅までは電車のスピードが遅いので程好い風が吹き込み良い気分。
   ところが北久里浜駅を過ぎ、電車は一気に加速すると共に正面の窓からは物凄い強風が吹き込み
   仕切り隣の運転手が「やい子供、窓を閉めろ!」との一喝で当時の子供は素直に窓を元に戻します。
   
   ついでに久里浜まで出掛けた目的は平作川。
   北久里浜駅近くの田圃ではザリ蟹が取れ、終点久里浜駅の鉄橋下流では時に「イナ」がバケツ一杯も
   釣れ、今の京急と沿線風景では考えられないのどかな懐かしい思い出です。

3. もうひとつ
   私は大学時代を名古屋で過ごしました。
   大学3年の時に大都市で6,000人の死者を出した伊勢湾台風を経験、東海道線の海側(当時の
   中日球場側)の全地域は1ヶ月に及ぶ冠水でした。
   その風景の中、当時の国鉄自慢の東京ー大阪間の長距離電車特急「こだま号」を蒸気機関車が牽引し、
   恐らく岡崎ー岐阜間だったと思いますが、1ヶ月近くも走っていた記憶が残っています。
   あの風景を写真に残していたら価値あるなあと、今に悔まれます。
   この風景は今の鉄道人は忘却の彼方か、今回鉄道博物館では見掛けませんでした。

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