拉孟守備隊の戦い


 拉孟は、中国南西方の雲南省を南北に貫流する怒江の西岸、ラングーン(現ヤンゴン)と昆明を結ぶビルマ公路の要衝にある。レド公路(インドのレドから昆明に達する中国支援ルート。途中からビルマ公路と合流する)啓開を目指す中国軍にとっては、彼の地を攻略しない限り公路の打通は望み得ない極めて重要な地点であった。
 この地は、1942年春の日本軍進攻以来、歩兵第113連隊第2大隊が守備しており、陣地構築に力を注いでいた。43年中期以降、中国雲南遠征軍の攻勢準備が進展すると、拉孟は、最小限の兵力をもって空陸からする猛攻に対してもこれを固守して、師団(第56師団)主力の作戦を容易にするように命ぜられ、陣地の耐久力も格段に強化された。
 44年5月11日、雲南遠征軍の攻勢開始とともに守備隊主力は、歩兵第113連隊の軍旗を残して出撃したので、野砲兵第56連隊第3大隊長の金光恵二郎少佐が守備隊長となり、同大隊を基幹として第113連隊の残置兵力を合した部隊が、拉孟守備隊として防衛の任務に就くことになった。
 そこで、この節には、1944年6月2日〜9月7日の拉孟における守備隊の勇戦と、その玉砕について紹介する。


 中国軍は、1944年5月頃から怒江以東のビルマ公路の補修を始め、連日弾薬、資材、食糧などの集積に努めていた。6月1日、怒江東岸の鉢巻山頂上に雲南遠征軍(以下「遠征軍」と略称)の兵士が現れ、悠々と工事を始めた。守備隊砲兵は遠征軍砲兵の制圧を企図したが、その位置が守備隊から見て死角に入っており、射撃を実施することはできなかった。
 翌日、鉢巻山に進出した数門の重砲射撃によって、遠征軍の攻撃が開始された。守備隊の砲兵もまた応戦し、怒江峡谷一円は彼我の砲声に包まれた。
 さて、この当時の守備隊兵力であるが、前述したように主力は出撃した後であり、その残置部隊と野砲兵大隊を合わせて人員約1290名(戦傷患者約300名と邦人(非戦闘員)約20名含む)、火砲22門を数えた。
 次いで6月3日、遠征軍はさらに砲兵を増加して対砲兵射撃にその火力を指向した。一方で、拉孟の南方より怒江を渡河した中国軍の新編第28師(約6900名)は、6月7日、守備隊の前進陣地に対して攻撃を開始すると共に、一部をもって拉孟の南方を迂回して、拉孟と後方を繋ぐビルマ公路を遮断した。これによって守備隊と師団主力の間での連絡は途絶し、無線以外では不可能となってしまった。
 新編第28師は、6月14日から第1回総攻撃を実施した。連日2個大隊内外の兵力を逐次交代させて、一部は陣地内に突入してきた。また、16日、拉孟の北方に進出した新編第39師(約5000名)は、直接主戦闘陣地に対する攻撃を開始した。しかし、この方面は地形峻険の為、陣地の至近距離には接近できず、6月20日頃には、完全にこの攻撃を破砕した。6月28日には、雨期の間隙をついて日本軍戦闘機が飛来し、手榴弾や小銃弾を投下した。守備隊は、戦闘開始以来初めて見た友軍機の姿に、士気大いに揚がった。
 しかし、この間の砲撃戦で、守備隊の弾薬庫が被弾破裂し、その損耗は非常な痛恨事で、早くも歩兵弾薬の不足を告げるに至った。

 拉孟攻撃の失敗を知った遠征軍司令官の衛立煌大将は6月20日、総予備の栄誉第1師(約5600名)を拉孟に急派して、新編第28師と交代させた。また、遠征軍は7月上旬に、ついに怒江唯一の橋梁である恵通橋の架橋を完成し、同橋を通ずる自動車輸送により、小銃弾すら届くような陣前至近距離まで弾薬資材を運び込み、次期攻勢準備を推進した。一方の守備隊は士気きわめて旺盛で、破壊された陣地の補修増強に努め、前進陣地の一部から守兵を撤収して主戦闘陣地を強化した。
 栄誉第1師は、ロケット砲などの新鋭火器も使用して、7月4日から第2次総攻撃を開始した。怒江対岸の重砲の密接な支援の下に、猛烈な突撃をしてきた。攻撃は、ほぼ1日おきに実施されたが、7月15日頃守備隊は再びその攻撃を破砕した。
 だが、死闘は遠征軍の来襲以来1ヶ月半にわたり、守兵の損耗も約30%に達し(一般に、部隊の損耗が30%以上になると、戦闘力は激減するという)、砲兵弾薬も7月中旬には欠乏を告げ、遠征軍砲兵の活動も傍観せざるを得なくなった。天候も、完全な雨期に入り、1ヶ月の約半分は雨で、壕内は膝までぬかるみと化し、守兵に脚気やマラリア患者が続出した。
 衛立煌大将は、第2次攻勢も再び失敗に終わったので、昆明に控置してあった第82師、第102師を拉孟に急派して、第3次攻勢を準備させた。
 遠征軍の第3次総攻撃は、7月20日に開始され、新鋭の第82師、第102師は、主力を挙げて終日猛攻撃を加えた。陣地には、1日7000〜8000発もの砲爆撃が叩き込まれた。それに膚接して攻撃部隊が陣前に肉薄し、手榴弾を投げる。守兵はそれを壕外に投げ返す。遠征軍の部隊は入れ代わり立ち代わり近接を試み、突撃支援射撃に続いて陣内に突入し、白兵戦が始まる。この様に壕内での戦闘は、熾烈をきわめた。
 7月25日頃の守備隊の兵力は、約300名に減少した。第113連隊長松井大佐は7月20日、最悪の場合は軍旗を奉焼するように電報で命じた。また、第56師団長松山中将は、9月初頭に実施される反撃作戦の計画に基づき、全般の関係から9月上旬まで拉孟を死守するよう命令した。
 しかし守備隊長の金光少佐としては、現有戦力と弾薬・食料の関係から、それまで拉孟を確保する自信はなかったらしい。即ち砲兵弾薬はそれぞれの砲に自決用の最後の1発を残して既に無く、歩兵弾薬は著しく欠乏し、食糧も7月下旬倉庫を焼かれて、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばさざるを得ない状況であった。 

 8月2日、激烈な死闘の末に前進陣地は全て奪取された。遠征軍は、前進陣地攻略の余勢を駆って8月7日、第4次総攻撃を開始した。この頃守備隊の兵員で健康な者は、200余名に減っていた。金光少佐は、「我の最も痛手とする敵の火砲を破壊して、守備隊の士気を鼓舞しよう」と、4名1組の挺進破壊班を7個編成した。
 8月8日、9日の両日、中国の民間人に変装した破壊班は、夜暗に乗じて遠征軍の包囲をすり抜け、10日夜、敵火砲5門その他を破壊した上、自らは戦死2名を出したのみで、他は12日無事に帰還した。
 8月6日と12日、守備隊は航空機十数機による弾薬の空中投下を受けた。その模様は、当時の電文によると次のようであった。
「今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり」
「我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備隊将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす」
 遠征軍は、依然優勢な砲兵を展開し、航空機の援護下に、主陣地帯の中央付近にある関山陣地に主攻撃を指向した。この陣地の守兵は連日の激戦で半減していたが、なおも頑強に死守し続けていた。攻略の困難を察知した遠征軍は、地上攻撃と併行して、8月初旬から約20日間にわたって、関山陣地の直下まで坑道を掘り、地中から陣地の爆破を図った。
 8月19日から始まった攻撃は、まずあらゆる砲火を集中して陣地要部を破壊し、翌20日も砲撃を続行しつつ、地中3ヶ所から陣地を爆破した。同時に遠征軍の突撃が開始され、守兵は白刃を振るって奮戦したが、午後、ついに関山陣地は奪取された。
 金光少佐は、各地区から兵員を抽出して1個中隊を編成し、関山陣地を奪回すべく20日夜、逆襲させた。この夜襲は一旦は成功したものの、再び奪取された。22日未明、逆襲が再興されてまたも関山陣地を回復したが、天明とともに実施された遠征軍の砲撃によって守兵に死傷続出し、金光少佐も撤退を命じざるを得なかった。

 この頃第33軍(第56師団が属する上級部隊)は、遠征軍に対する総反攻を準備中であり、攻撃開始は9月3日の予定で、9月10日頃までには当面の敵を撃破して、拉孟付近に進出することになっていた。守備隊はこの日を唯一最大の希望として、僅かに生き残った100名余りの将兵は戦い続けたが、8月29日、遠征軍の攻撃で拉孟の陣地中央部は完全に制圧され、南北に分断されてしまった。
 9月5日、拉孟最期の時も迫りつつあると判断した金光守備隊長は、師団主力に決別の電文を打った。
「通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。……周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し、如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る」
 金光少佐は重要書類を焼却し、無線機を破壊してさらに徹底抗戦を図ったが、9月6日早朝から再び猛攻を受け、特に迫撃砲の集中火によって多数の者が死傷した。17時頃、迫撃砲弾の破片が金光少佐の腹部と大腿部を粉砕した。
 こうして拉孟に夕闇迫る頃、拉孟守備隊長 金光恵次郎少佐は、壮烈な戦死を遂げたのである。
 金光少佐の死後、第113連隊副官 真鍋邦人大尉が代わって全般の指揮をとった。いよいよ守備隊の命運も窮まり、玉砕も時間の問題と覚悟された。
 明くれば9月7日、真鍋大尉は軍旗を奉焼し、また木下中尉以下3名を、報告の為陣地から脱出させた。陣内には100日の死闘を物語るかの如く、死屍累々たる中に負傷者が呻いていた。守兵のうち無傷の者は皆無に近く、全兵力は約80名であった。
 この日も早朝から遠征軍の砲撃が陣地に注がれた。正午を過ぎ攻撃はますます激しさを加え、守備隊の生存者が拠る最後の陣地は、僅か150メートル四方に過ぎなかった。
 夕方、刀折れ矢尽きた真鍋大尉以下50余名は、ついに敵中に突入して全員玉砕した。
 かくして9月7日18時頃、拉孟一帯の銃砲声は止んだ。
 雲南遠征軍が拉孟陣地攻撃に投入した兵力は、総計5個師約41000名、火砲157門に及んだ。守備隊は約30倍もの敵に包囲され、死闘を続けたのだった。

 さて、この戦いには後日談がある。まず、金光大佐(玉砕後2階級特進)の遺命により拉孟を脱出した木下中尉達であるが、彼らは敵中を巧みに潜行し、9月15日、辛うじて第56師団の前線に辿り着き、戦闘の様相を報告した。
 重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有様、空中投下された手榴弾に手を合わせ、一発必中の威力を祈願する場面、弾薬が尽きて敵陣に盗みに行く者、取り残された邦人女性約20名が臨時の看護婦となり、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働く姿など、語る者も聞く者も、ただ涙あるばかりであった。
 さらに木下中尉は、真鍋少佐(玉砕後特進)の手紙を松井連隊長に渡したが、それには
「拉孟の将兵は固く軍旗を守り、連隊長殿の帰られることを信じ、最後の一兵まで血戦を続けます。小雀はチューチューと鳴いて、親雀の帰りを待っています。………」とあった。
 松井少将(8月1日進級)も、部下を救い得なかった無念の思いで、暫し悲憤の落涙を禁ずることができなかったという。

 もう一つは、9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。
「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)
 諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」

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