横八会員投稿 伊藤 博 (6組) No.60
歴史探訪
要塞砲をめぐり
アーカイブスで「日本海大海戦」のDVDを観る機会があった。昭和44年(1969)東宝製作、
監督丸山誠治、主演三船敏郎。当時観客を動員した話題の戦争スペクタクルである。
三笠を旗艦とする帝国連合艦隊が黄海海戦の後、バルチック艦隊を向け打つ補給と修理のために一時
日本に帰投の折に、東郷司令長官が旅順攻略で苦戦中の乃木将軍を陣中見舞いと視察を兼ねて立ち寄った。
(寡聞にしてこのことは知らなかったので、史実は未確認であるが)
その時、乃木希典が東郷平八郎に、「旅順占領に多大な時間がかかっていて申し訳ない。
しかし、海軍から重砲を貸してもらったので、必ず陥とす」と決意を示す場面がある。
然し、この表現の内容は史実に照らすと正しくない。敗戦からわずかに24年しか経ていない時期に
製作されたにもかかわらず、脚本の歴史考証が杜撰で歴史の風化のあまりの早さを実感した。
旅順攻撃のために使用された重砲(要害砲)は海軍のものではなく、陸軍のものであった。
帝都防衛の馬堀・観音崎要塞を始め全国の陸軍要塞から海岸砲を急遽移送したので、
「海軍が重砲を運んでくれたので・・・・・・」が正しい表現であろう。
要害砲兵の養成機関である陸軍重砲兵学校は馬堀にあった。
敗戦後に新制中学が誕生し、馬堀中学の校舎(馬堀小学校も併立)となったのは奇しくもこの旧重砲兵学校
の木造校舎であった。
現在は鉄筋コンクリートの校舎に建て代わり昔年の姿を偲ぶことは出来ない。
往時は、校舎の眼前から大津まで続く砂浜(現在は宅地造成で面影もない)で、猿島、房総を臨み、
背景は緑の要塞・小原台(現防衛大学)。白砂青松のもとで幼少期を自然児として過ごした想い出は尽きない。
当時の横高の全校水泳も馬堀海岸で行われていた。
アーカイブスの一作品がきっかけで遡った、懐かしい馬堀中学の旧校舎(旧重砲兵学校)周辺と現状との対比を、
Webサイトの空撮に見る史実の一コマである。
歴史は繰り返す。災害と戦争は忘れたころに来るという箴言と国防の正論は平和ボケの耳には痛いと感じない
までになってしまっているのであろうか。
Webの検索より、
陸軍重砲兵学
陸軍施設 |
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重砲兵学校の前身は、明治22年の「要塞砲兵幹部練習所」である。東京湾要塞など要塞を守備する要塞砲兵隊の幹部を養成するためのもので、本部が東京、生徒中隊が千葉に置かれたが、すぐに浦賀の海軍屯営跡に移転した。明治29年には、教育内容を拡充し、名称を「陸軍要塞砲兵射撃学校」と改称し、明治31年、現在の馬堀の地に新築移転した。その後、要塞砲だけでなく野戦重砲も所管することとなり、明治41年に「陸軍重砲兵射撃学校」と改称。しかし、大正18年に野戦重砲兵教育を「陸軍野戦砲兵学校:千葉県」に移管し、名称も「陸軍重砲兵学校」と改称し、主として要塞重砲と攻城重砲の教育研究を行うことになり、終戦まで継続した。大正11年には海軍より移管された砲塔砲台の教育研究、また潜水艦射撃のための水中聴測の研究教育なども行われた。 |
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戦後、建物は、学校等に転用された。すなわち本部、第二、三中隊兵舎、将校集会所は馬堀小学校、向かい側の砲廠、下士官候補者隊、第一中隊兵舎は馬堀中学校、材料廠、機械工場あたりの建物は日大横須賀臨海実験所、幹部候補生隊は消防局寮、火薬庫付近は馬堀自然教育園に使用された。 |
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重砲校最奥部谷戸の火薬庫付近図。 |
@火薬庫。周囲は年中じめじめしてい |
A火薬庫 |
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B建物は残っていないが、三方を |
C火薬庫間の横檣 |
井戸。正方形の枠はレンガにモルタル張り |
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今も残る道路境のコンクリート壁 |
陸軍用地標石 |
小原台砲台方面への坂(現防衛大学への坂)の |
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Iさんに提供いただいた昭和30年前後 |
将校集会所。戦後、養護学園として使われた。 |
校舎奥にあった剣術道場か。 |
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