その5年後の安政元年(1854)、スターリング提督率いるイギリス艦隊が長崎奉行・水野筑後守と
日英和親条約を締結した際の通訳は、ジョン・M・オトソンであった。

実は、この両者は同一人物で、元千石船の「炊」(炊事・雑用係)音吉。時化に遭い14ヶ月もの間
大平洋を漂流し生死の間を彷徨った末に数奇な運命に翻弄されて、ついに日本の土を踏むことを許され
なかった幕末の悲劇の人である。

愛知県知多郡美浜町小野浦にある「良参寺」に眠る遭難船宝順丸・乗組員14名の墓石の中に、音吉
(14歳)と記されている。然し、実は音吉は強かに生き伸びていたのである。

天保3年(1834)1月10日早朝の知多小野浦は天気晴朗にして波穏やか。千石船の船出には申し分
のない日よりで、そのすぐ後に来る筆舌に尽くせぬ辛苦の運命を予想する者は誰一人としていなかった。

宝順丸はいつものように積荷を満載して、順風に送られて遠州灘〜下田〜浦賀を経て江戸に向かって船出した。

然るに、天下の難所・遠州灘に入るや天候が急変し、疾風が暗雲を呼び、波頭は天を突き、船頭や漁師が
最も恐れる大西風が3日3晩吹き止まず、舵は壊れ帆柱を折り、14ヶ月間の筆舌に尽くせぬ悲惨な漂流の上、
アメリカ太平洋岸のフラ・タリー岬・ケープ・アラバマに漂着した時の生き残りは、14名の乗組員中、
音吉を含めて僅か3名に過ぎなかった。

現地のインディアン・マカ族からの奴隷のような扱いから、イギリスのハドソン湾会社により救出・解放
された後、天保6年(1835)、イギリス船「イーグル号」に乗船してサンドイッチ諸島(ハワイ)〜
ケープ・ホーンを経由してロンドンに向かった。

音吉はロンドンには10日間いたものの上陸を許されたのは1日だけで、「ロンドンの土を踏んだ最初の
日本人」となった。その後マカオに向かいようやく落ち着く先を得た。

そこで、音吉はイギリス商務省主席通訳官・ギュツラフと邂逅。我が国のキリスト教(プロテスタント)
布教史の重要な一こまに深く関与することになる。

天保7年(1836)1月より、ギュツラルが取り組んだ「ヨハネ福音書」と「ヨハネの手紙」の翻訳に
協力することになったのである。

メフド・ハースト博士(1830)の編纂になる「英和・和英辞典」を頼りに、11ヶ月をかけた努力により、
現存する日本最古の和訳聖書、「約翰福音之伝」、「約翰上中下書」を完成。シンガポールで1500部が
木版印刷された。
後に安政6年(1859)ヘボンが我が国に各冊を持ち込んでいる。

頃は幕府の「異国船打払令」(1825〜1845)で「蛮社の獄」が吹き荒れていた時代。
折から来航[天保8年(1837)]した「モリソン号」は和平を示すために武器を載せず、聖書すら
積み込まなかったが、打ち払いで追い返された。

音吉は、通訳として祖国の湾内まで来ていたにも係わらず、ついに幕府は上陸を許さなかった。

文久2年(1862)音吉44才の時、シンガポールに移住。その年の2月に、遣欧使節団の随行員として
シンガポールに立ち寄った福澤諭吉と面談。自らの数奇な生涯や、アヘン戦争、太平天国の乱について語っている。

元治元年(1864)12月2日、「ジョン・M・オトソン」としてイギリスに帰化。
慶應3年(1867)1月19日、病死。享年49。

音吉と妻、ルイーダ・ベルーザとの間には一男二女をもうけている。
明治12年(1879)6月18日付東京日々新聞に、

「尾張知多郡の産にして、40年前アメリカに漂流したる山本音吉の子、ジョン・ダブリュー・オトソンという者、
帰朝して神奈川県に入籍を願い出た」
とある。長男ジョンは父の望郷の念を継ぎ日本の土となった。

幕末に、ジョン彦治郎やジョセフ彦に先駆けて、通司として活躍した(山本)音吉の烈々な生涯に関心のある人は、
参考までに「海商―異邦の人ジョン・M・オトソン」(柳蒼次郎著、徳間書店)の一読をお薦めする。

千石船の内海航路が華やかであった往時を偲ぶ、現在の知多半島・師先海岸の写真を貼付する。

          

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