横八会員投稿 No.214

題名   随筆走馬燈リヤカー 
投稿者  伊藤 博 (7組)
掲載   2007.12.21


随筆走馬燈

          リヤカー 

太平洋戦争の敗戦直後は、現在の車社会からはまったく想像もできない時代であった。

公共交通手段の主力としての電車とバスはあったのだが、路線も運行数も極めて少なく、自転車などは
貴重品で、大きなものは運送手段がなく不便が当たり前の時代であった。

丁度その頃の話である。

陣内の大津高女の正門前の家に移ってしばらくして、あまり丈夫ではなかった母が重い病気になった。
近くに往診してくれる町医者はいたのだが、手に負えなかったのであろう、入院をすることになった。

車も乗り物も何もない時代である。父はどこからかリヤカーを借りてきてそれに布団を敷き母を寝かせた。
そして、大津から久里浜へ続く国道を母を乗せたリヤカーを曳いて、野比の国立病院まで連れて行くこと
になった。
小学校低学年であった私は、事の重大さが判らぬままに黙って付いて歩いていった。

その日は幸い天気が良かった。大津の家から野比までは、今見ても大変な距離で、片道でも10数キロはある。

久里浜までの国道は、当時としては珍しく真ん中だけがコンクリート舗装で両端は未舗装の幅の広い道路
だった。多分軍用道路でもあったからであろう。通る車も無く、私たちの他は誰も歩いている人など
いなかった。

湘南電車(現在の京浜急行)の鳴神(現在の新大津)、井田(北久里浜)を横に見て線路沿いに終点
久里浜駅までは平坦である。そこから野比に行くまでは砂利道の山越えで、長い坂を登らねばならなかった。
上り詰めると左折して田舎道を更にかなり歩き、野比の目的地になんとかたどり着いたのは午後遅く何時で
あったか、何時間かかったのかも判らない。途中で食事を執った記憶もない。

国立病院とは名ばかりで、対岸に房総の鋸山を望む波打ち寄せる野比海岸に面する広い松林に、木造の兵舎
のような建物が点在する旧軍の療養所で、母は即入院となった。

その後は、どうして帰ったかまたく覚えがない。多分、疲れてはててリヤカーで泥のように眠ってしまった
のであろうか。

それからは、学校はそちのけで、往復ともに歩いて野比の母への日参が始まった。
風光明媚で自然がたっぷりあるのも子供心に気に入った。

季節は初夏。病院の中を流れる小川で芹が幾らでも採れた。それを摘んで母に見せて喜んで貰うのが嬉し
かった。あれほどいやがった扁桃腺の手術も、自分からすすんでその病院で済ました。母と自然とに
包まれた楽しい時間が流れていった。

空気の良さと治療の宜しきを得たのであろう、幸いにも母は程なく退院することが出来できた。

そこで、母は珍しく友人ができた。同じ病室で下浦に住むその農家の婦人を、退院後まもなく、訪ねたことが
あった。その楽かった一時の話をしてくれたことを想い出す。

東京育ちの母の横須賀での友達の話は、これ以外に耳にしたことはない。病気がくれた幸いであったのかも
しれない。

その母は私が二十歳の時に早世したが、93才まで生を全うした父は晩年に、「お母さんをリヤかーで野比
までつれていったね」とぽつりと言ったことがある。

敗戦直後の何もかも欠乏した時代に、明治生まれがリヤカーの行動で示した母への愛情は、今の自分を省みて
忸怩たるものがあり、想い出すと涙を禁じ得ないのである。

                                    完

                             野比海岸にて

トップに戻る
寄稿の目次へ