横八会員寄稿 No.195

題名   故八代紳の想い出
寄稿者  伊藤義朗 (8組)
掲載   2007年9月19日 
 
    

人には出会いがある、と同時に必ず別れが待っている。

思い起こせば昭和28(1953)年4月、小便臭い横高・控室での組分け。
18組 担任 宮沢和雄先生(国語御担当)と決定、そこが紳との出会いの場であった。

紳は、私にとってはいつも空気のような存在であったように思う。

ある日突然自転車に乗って葉山の拙宅前に他の二人、言うまでもない、渋谷禎省(悠雅彦)
と石田道夫を引き連れて現れた。「これからサイクリングに行く。」と言う。
有無を言わせぬいつものやり方なので黙って自転車に乗ってスタート。

「これから三浦半島一周だ。」

葉山御用邸から先、三崎に向かっては未舗装道路の連続である。
たまに追い越される京急バスをものともせず、少しでも平らな部分を探しながら四人で、
ガタガタ・ジグザグ全速走行だ。最近のようなハイカラな自転車ではない。
後ろに荷台の付いた、魚屋自転車ゆえ、乗り心地の良いはずがない。
脳みその中までドロドロになりそうに、ほこりにまみれ、走りに走った。
どこをどう通ったのかは、全く記憶にない。
夕方、気がついたら横須賀の三春町辺りをふらふら、
石田が気を利かせて「うちで休んで行けよ。」、最初からその言葉を待っていたんだよ。
転がり込むように石田の家に上がり込み、結局その日はそこで一泊、翌日の解散となった。

又、ある時は私が両親の手伝いで秋の稲刈りをしていた時だ。
いつもの三人が
134号の県道から「お〜い、おお〜い。」と、呼んでいる。

紳曰く「これからハイキングに行くぞ。」、有無を言わせない。

おフクロが気を利かせて、残り飯で四人分のにぎりめしを握ってくれた。
バスと電車・夜行列車を乗り継いで、着いたところはなんと黒磯駅。
到着時間は定かでないが夜明け前であったのは確かだ。
黒磯から那須高原までこれから歩いて行くと言う。
私は全くの素人、その頃黒磯がどの辺にあって、那須までが何キロあるのかも知らず、
ただただついて行くしかなかった。他の二人も多分似たり寄ったりの気持ちであったろう。
ジャンパー一枚羽織っただけの十月の夜明け前は可成りきつかった。真っ暗な国道(?)を
トボトボと歩いて行く中、横殴りの強風が吹き始めた。寒くてどうにもならない。
道路脇の一段低い田んぼの畦との境に飛び込み風を避け、四人で身を寄せ合って、
おフクロの握ってくれたおむすびを分け合って食べ、暫くの間風の静まるのをジッと待った。
どのくらい時間が経ったのかは覚えていない。朝日が昇った来た。
一台のおんぼろトラックが下から上ってきた。紳が飛び出していって、車を止め乗せて貰った。
土方のおじさん達が仕事場へ行く途中だったのだ。「どこから来た?」等々、一通りの尋問を終えると、
おじさん達があきれ顔をしていたのを今でも覚えている。上まで行くことは行ったのだが、
さしたるものもない。
「帰ろう。」のひと言で下山。帰りのことは何も覚えていない。

組別運動会が毎年開催された。応援団を結成して、応援歌を作詞作曲して練習する者、出場種目を
決める者など、校内が騒然とした雰囲気の中、私は出場種目に先ず、百メートル徒競走を選択。
私も走る方はそれほど遅い方ではなかったが、紳とか節夫(鈴木)は
12秒6と早い。
その時私も
13秒フラットと頑張った。でも紳の背中を見ながら走ったことになる。

サイクリングにせよ、ハイキングにせよ、百メートル競走にしろ、私はいつも八代の背中を見ながら、
紳に引っ張られながら、必死について行った。

去る823日の丑寅会の日、紳は酸素ボンベを転がしながら来てくれた。
しかしながらボンベが長時間保たないと言って、昼食のソバを一緒に食べただけで、会には出席せず
帰って行った。横須賀中央の駅前で別れた。彼の背中を見送った私。その時紳の背中を私は
追い掛けはしなかった。

これが最後の別れになろうとは...。

でも、紳はいつもどこかで、私を優しく包むように、見守ってくれているような気がする。
空気のような紳だから...。

ゆっくり休んでいてくれ、紳。

紳! あまり早く迎えに来るなよ。私はまだやることが沢山あるんだ。  

                           合掌    伊藤義郎

                         

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