横八会員寄稿 No.193

題名   追悼、故八代 紳へ
寄稿者 
渋谷禎省(悠 雅彦)
掲載   2007年9月18日

   

  八代みたいに私などより遥かに頑健な男が先に逝ってしまうとは。
  
  メールで癌治療をすると告白してきたのが、驚いたことについこの間、死の2週間か
  そこらか前のこと。
  追悼文ということだが、8組で机を並べて以来親しくつきあってきた仲だから、敬称も
  麗々しい言葉などもいっさいなしでいく。お決まりのよそよそしい挨拶も遠慮する。

  それにしても、余りに早すぎるアッけない最期だった。
  油断するなとはメールの最後に必ず書いたものだったが、書いた私自身が油断して
  なくても死は必ず訪れると常々言い聞かせ、癌の手術を受けた直後から死を覚悟して
  きた人間だから、八代への思いは何とも複雑だ。

  何年か前の同期会のとき、その2次会で、術後間もない身体だと聞いていたので、
  アルコールは最初の乾杯だけにしておけと私は牽制球を投げた。
  だが、彼はニヤッと笑って、余計な心配は無用とばかりに、並々つがれたビールを
  何杯となく飲み干しては談笑しているではないか。
  術後だというのに、彼は家でも毎晩こんな飲み方をしているのかと半ば呆れながら、
  しかし大事に至らなければいいがと思いつつそれ以上は何も言わなかった。

  思い返せば、私は彼の誘いで軟式野球部に入った。
  同僚の石田道夫や、直前まで部員だった伊藤義郎と4人で時を過ごし、ときには
  泊まっていったり、伊藤の家では彼の母親にハッパをかけられたりと、この歳になっても
  忘れられない思い出が幾つもある。
  そんな中で私がいつも感心したのは、八代が怒ったり、声を荒げたリ、あるいは気色
  ばんだりした姿を一度として見たことがないことだった。

  一言でいって、大きな図体にそぐわないといったらいいのか、心優しい男であった。
  大きな図体といえば、高校生活を通して忘れられない思い出がある。
  それはいつでも脳裏に鮮やかに甦る。3年の秋だったか、全8クラスから3人一組の
  相撲チームを出し合ってトーナメント形式で優勝を競い合うイヴェントがあった。

  何のためのイヴェントか、どんな趣旨で行われたのか、詳細は何一つ覚えていないが、
  8組を代表して八代、互井、それに私の3人が出場した。記憶に間違いがなければ、
  1回戦に勝ち、次の2回戦で対戦した相手が何と柔道部の猛者3人でチームを組む
  クラス(何組かは失念した)だった。
  その1人は東京五輪の優勝者で今は亡き猪熊だったから、まるで最強のプロ組と
  素人集団が対戦するようなものだ。
  だが、幸運にも先鋒の私が高田に辛うじて打っちゃリで勝ち、互井が惜敗したあと、
  いよいよ猪熊と八代の大将同士の決戦となったのだ。

  このときの八代の強さには舌を巻いた。
  あの暴れん坊の猪熊に一歩も譲らず、がっぷり四つに組み合ってあわよくばという
  ところまで猪熊を追い詰めたのだ。
  最後は猪熊の軍門に下ったが、あの屈強な男と堂々と渡り合って1歩もあとへ退か
  なかった八代の強さを、応援に駆けつけたクラスの仲間も「いやァ、惜しかったなァ」と
  いいながら口々に称えたのであった。
  勝負を終えて荒い息づかいをしている猪熊に対して、八代はといえばまるで何事も
  なかったかのように笑っていた姿が、今なお網膜に焼きついている。

  定年を経て悠々自適の日々を楽しむようになってからは、8組の代表幹事が旅やゴルフ
  などの集まりをまとめると八代は必ず参加して、数日後にはその様子をメールに書いて
  きてくれた。
  人恋しいというのか、集まりに参加して心からエンジョイするのが彼の晩年の最大の
  楽しみだったようだ。
  昨年2月に私が母校の早稲田大学ハイソサエティ・オーケストラの創立50周年記念
  コンサート(ヤマハホール)の総合司会を担当したときも、仲間を誘って会場に足を
  運んでくれた。
  そのときは癌の兆候などは微塵もなく、いつものひょうひょうと人生を楽しむ八代らしい
  活気が全身から発散していた。

  その日から数えたって2年も経たないのに、あいつはアッけなく旅立ってしまった。
  いい奴が先に逝ってしまったと、彼を知る級友の誰もが思っていることだろう。
  私が八代の後を追うのもそれほど遠い先のことではない。
  あちらで会えればうれしいねェ。今はただ、彼の冥福を祈る。安らかに眠りたまえ。
                       
                                    渋谷禎省(悠 雅彦)

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