横八会員投稿   伊藤 博  No.115

ウノ目タカの目

               WBC日本・台湾戦のかげに

敬愛する先輩・U氏より、(WEB)「遥かなり台湾」にて紹介されている、「みやざき新聞」より抜粋した、
3月に開催のWBC日本・台湾戦に隠されたエピソードを教えて頂きました。

有意義な内容ですので、下記の通りご紹介する次第です。

「みやざき新聞」(4月1日社説)より抜粋

試合は台湾チームが優勢で、勝利目前の9回2アウト、その土壇場でまさかの逆転劇となったのです。
勝利を逃がして落胆しているはずの台湾チームが、試合後彼等はマウンドに集まり、円陣を組み、
何と深々と日本人観客に向かって深々と頭を下げたのです。

一体何が起きたのでしょうか。 実は試合の2日前、一人の日本人男性がツイッターにこうつぶやいたのです。

 「8日の台湾戦を見に行かれる方、先般の東日本大震災への台湾からの多大な支援のお礼のプラカードをお願いします。」 

そう、先の震災で台湾は200億円を超える義援金と400トンを超える援助物資を送ってくれ、
なおかつ> 4震災の翌日には世界のどこよりも早く救助隊を派遣してくれました。
「そんな台湾にお礼をしよう」というツイッターでの呼びかけに多くの日本人が応えたのです。

 そして当日の東京ドームのスタンドには台湾に感謝するメッセージが書かれたプラカードや台湾の国旗が溢れたのです。
そんなツイッターのことなど知らない台湾の選手たちは試合が始まって驚きました。

試合を生中継するテレビカメラは、スタンドの様子を全世界に発信しました。試合は日本と台湾の友好を深める
名試合となりました。
ネットには次のようなことが書かれてありました。
 「日本にとっては台湾に感謝を伝え、台湾にとっては野球を
教えてくれた日本と世界の舞台で戦える最高のステージとなった。

 およそ一世紀と言う時間をかけ、必死に追いかけてきた『背中』を超えようとする台湾と、その前に立ちはだかる日本。 
その名勝負は夜11時半を超えても決着がつかず、いつしか敵と味方と言う立場も超えて、球場を一つにし、
東京ドームにはウエーブが起こった。

そして迎えた9回表、一点を追う日本は2アウトから同点に追いつき、延長10回表、ついに逆転------。
しかしこれで物語は終わらなかった。

歓喜に沸く日本選手の後ろで、ベンチを飛び出した台湾の選手たち。彼らはマウンドに向かい、
360度輪になるとスタンドの方向に深々と一礼したのだ。

  その謙虚な姿に観客から惜しみない拍手が送られた。日本の地上波では放送されなかったシーンだ。
『礼には礼で応える』。そうやって互いにリスベクトする関係が築けた。

  あの日、私たちはそんな幸せな光景を目のあたりにした」一方ネット上には台湾に感謝するプラカードを持った
日本人の写真が数多くアップされています。

その一つにこんなコメントが書き込まれていました。「この人たちは日本人の誇りです。」 記事を読んだ後で、
この記事に関した「WBC台湾ナインお辞儀の秘密」というタイトルのYoutubuを探し出しました。

その映像を見て大変感動し涙が出るのを禁じ得ず、改めて日本と台湾との深い絆を認識させられた次第です。

  このYoutubuは「百聞は一見に如かず!」です。是非お勧めします。下記のアドレスにアクセスしてどうか
ご覧になって下さい。よかったら、感動を共有しあうためにも是非友人や知人にも教えてあげて下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=hTSkS4UE0dA

                                      以上

以下はこの寄稿にあたり、ご参考までの補足です。

このWEBは大きな反響をよんでいるようですが、そのなから1〜2を紹介すると、

1.台湾生まれ(81才)の日本人の感想

 「実は3月のWBC日台戦での日台の友好振りを日本のマスコミが中国に阿って国内に報道しなかったとして、
多くの湾生から『日本のマスコミは腐った』 という怒りのメールが来ていましたので、今夜は未明まで掛って
怒っていた人たちに転送したところでした。」

2.他の感想

「同じ」隣同士なのに昨今の中国、韓国とは、台湾はまるで大違いである。」

                                以上

尚、上記の感想にある、台・中の差に関する愚見を「歴史探訪」(寄稿を同時添付)しましたので、
併せてご笑覧下さい。

                                   以上

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歴史探訪

中・台間の溝は浅からず

台湾人(本省人)と中国本土人(外省人)との確執は、その原点の片鱗を、1948年2月28日に台北市で発生し、
その後台湾全土に広がった「二・二八事件」に見ることができます。

この事件で、約 28,000 人の本省人が殺害・処刑されたと言われ、財産や研究成果の多くが接収。
実際の被害者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在し、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、
いまも政府・民間双方の間で続いています。

 現在、訪台すると、日本の統治時代の方が、圧政と汚職にまみれた外省人(中国本土人)の支配よりもはるかに
良かったとの話をしばしば耳にします。

この事件の発端は、1947年227日、台北市で闇タバコ(本土では自由販売。台湾では専売品として差別)
を販売していた女性を外省人の官憲が摘発、女性は土下座して許しを懇願したが、銃剣の柄で殴打し、
商品および所持金を没収。
この女性に同情して集まった民衆に官憲が発砲し、無関係な台湾人まで射殺しました。

これをきっかけとし、外省人への怒りが爆発。翌日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけましたが、
外省人(国府側)は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は機関銃で非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射し多くの市民を殺傷。
引き続き、国府軍は台北以外の各地でも台湾人(本省人)への無差別発砲や処刑を行いました。

対抗した本省人側は、国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。

劣勢を悟った在台湾行政長官は、本土に援軍を要請。「台湾人の組織的な反乱に武力をもって殲滅すべし」との通報により、
蒋介石は第
21 師団と憲兵隊を派遣。裁判官・医師・役人をはじめの日本統治時代に高等教育を受けたエリート層を次々と
逮捕・投獄・拷問し、その多くは殺害されました。

基隆の検問所では、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕。針金を手に刺し込んで縛って束ね、
「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだと伝えられています。

この事件の際発令された戒厳令は、 40 年後の 1987年まで継続。恐怖政治(白色テロ)によって、
多くの台湾人が投獄、処刑されました。また、国家安全法によって言論の自由が制限されていたので、
今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことです。

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