横八会員投稿 No.477

題名:我がバーレーンのの記憶
投稿:近藤礼三 (6組)
掲載:2011.02.18

「エジプトのカイロに続いてバーレーンに暴動という」という記事がこの数日、テレビや新聞の
ニュースで報道されており、カイロは有名ですが、バーレーンというと多くの方がピンと来ないと
思います。

私の記憶に残る砂場のようなバーレ―ンという小さな島がこんなに脚光を浴びるなんて、当時は
想像も出来ませんでした。

私が在籍した企業IHIがサウジアラビア東岸ペルシャ湾側の最大の都市ダンマン((DAMMAN)から50キロ程
内陸の首都リアドに向う砂漠地帯に巨大セメントプラントのプロジェクトを受注、私は現地工事のCivil
Managerとして1977年から81年までの4年余その地に滞在していました。

そのダンマンの沖合にある沿岸から僅か24キロ離れた面積757.5Km2で東京23区と川崎市を合わせた面積、
あるいは鳥取県の面積と同程度の砂の島がバーレ―ン王国なのです。

アラビア文字で綴るのが正しいのでしょうが、英語で書くとBahrain、当地ではバーレーンではなく
バッハレンとアラビア流にハに強くアクセントを置き発音していました。

サウジアラビアの巨大な国土に比べ、胡麻粒にも満たない沖合の小さな島、私の記憶に残るバーレーンの
印象を書いて見ます。

その1.
サウジアラビア東岸の当地一帯は原油の宝庫で、ARAMCOというアメリカの巨大企業の存在の他に
様々な投資が行われ、世界各地から人が押し寄せるのに、国際空港はダンマン郊外のダーラーン
(Dahran)という空港だけでは手狭でした。
バーレーンは島国の独立国とはいえダンマンの軒先のような存在で、このバーレ―ンにも国際空港が
あり、フライト便により双方の空港に分けられ、バーレーン発着便の場合はその間を結ぶ飛行機で
飛行時間は僅か30分、成田と羽田空港の距離のようなものですが、こちらは海、飛行機は小型で
便数も少ないため輸送能力は限られており、またフエリーがあったという記憶もありません。
多分サウジアラビアのことで故意に出入口を狭めているのかも知れません。

そのため日本に戻るチケットは空席待ちが多く、ARAMCO関係者を最優先に割振ったり、横やりが通る
のが当地の常識のようでした。

当時、サウジアラビアとバーレーン間を結ぶプロジェクトも計画され、日本からも調査団が見えたことが
ありましたが、未だに新聞には繋がっているという記事が無いことを見ると多分プロジェクトは実現して
いないのでしょう。
当一帯の海域は浅瀬で技術的には難しいものではなく、両国の財力をもってすれば実現は簡単なものです。
しかし、実現していないとすればサウジアラビアが陸続きになることにより、俗世界の風習で自国のイスラム
社会の厳しい戒律が、安易に侵されるのを恐れているのが大きな理由だと思います。

   
* 頁下の追記にて未完成を訂正、1986年に見事な架橋が完成していたのです。
     とすると、日本の調査団はタイミング的にかなり疎かったようですね。


繋がっていたとすると、今回のバーレーンの暴動はサウジアラビアにとっては対岸の火どころではなく
身内の火、中東におけるアメリカの良き伴侶であるサウジアラビアが巻き込まれたら、世界情勢が一転する
危惧も生じかねず、離れていて良かったと両国は胸を撫で下ろしていることでしょう。

その2.
ご承知の通り、サウジアラビアは禁酒、禁色の国なのに僅か沖合の飛行時間で30分足らずのバーレーンは
アルコールが自由の国でした。
そのため飲みたい一途でバーレーンに飛んでくるアラビア人も結構いるとか、という噂でした。
私も出国時にはトランジットのバーレーン空港でビールを飲み生き返った気分になりました。

あれから約30年、当時はこのバーレーンが原油で潤い百万を越える人口となり、宗教間の争いなのか、
富の不平等の爆発か、時代の流れなのかで暴動が起きるなんて想像も出来ませんでした。

我が現役の中盤から仕事上、レバノンをスタートに中東に接しましたが、中東の楽園と言われたレバノンが
1980年代に内紛で崩壊、次に発火したイラクの火は衰える気配もなく、今回はエジプトの火種は政変交代
にまで拡がり、延焼したリビアは将に火煙の最中、イエーメンも燻り始め、ヨルダン王国さえもがと。
幻想に包まれたモスラムの世界もどこに何が起きるか予測出来なくなりました。
                                                                           
  2月24日追記  
  この投稿を読んだ友人から、バーレーンとダンマンを結ぶ陸路は既に出来ているぞ、とのコメントが
  寄せられました。
  そこでインターネットの検索で調べた結果、キング・フアッハド・コーズウエイ (King Fahd Causeway)という
  名称の全長24kの近大的な橋が25年前の1986年11月26日に完成済みでした。
  この橋に関してはインターネットの検索で沢山のWebが出て来ますが、その一つバーレーン駐在日本大使館
  のバーレーン紹介のWebをご覧ください。 
    
  今回の一連の騒動のニュースでこのこの辺りの状況に全く触れておらず、私は世間知らずでした。 
  しかし両国が陸路でつながっているとなると、バーレーンの暴動はまさに親米国サウジアラビアの軒先。
  「サウジよ、お前もか」とアメリカにとってはショッキングです。

  どうも今回のバーレーンの暴動は宗教的構成が背景にあるのではないかと言われています。
  この国の宗教的構成は、サウジアラビアでは多数を占めるスンニ派の人口比率は3割程度にもかかわらず、
  富裕層の支配派、一方イランに多いシーア派は数では7割を占めていますが、下層の非支配派であり
  長年の鬱積が火種というのが大方の見方です。
  つまり暴動の背後にアンチ・アメリカのイランの脅威が見え隠れているのです。

      

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