横八会員投稿 No.437

題名:東京文化会館に関するエピソードから
投稿:伊藤 博 (7組9
掲載:2010.05.06



ウノ目タカの目

          東京文化会館にまつわるエピソ−ドから

上野の森の若葉が目に染みる5月5日、東京文化会館の早稲田大学交響楽団OB有志による「第九」
の演奏会は成功裡に終了した。
母校を異にする私が今回共に唱い、歓喜の一時を共有して心から堪能しえたことは僥倖であった。

長らく合唱を趣味としてきたが、早稲田の行事に参加したのは初めて。曾て学生時代に神宮球場で
エールの交換をして以来の実に半世紀ぶりの感慨である。

今回の合唱に馳せ参じたOBは約400名。オーケストラも90名余でコントラバス8本の大編成。
大ホールの舞台も客席も人で埋め尽くす盛況であった。

そこで、東京文化会館の舞台から、我が国の音楽史上に残る或るエピソードの記憶が甦ってきた。

昭和38年(1963)1月、この同じ舞台で日本フィルハーモニーのチャイコフスキーの5番と
ベルリオーズの演奏会が開催された。
立ち上がった聴衆の怒濤のごとき拍手が鳴りやまなかったこの演奏のタクトを振ったのは、誰あろう
若き日の小澤征爾。この演奏会の開催経緯はその前年の12月に遡る。

N響の一部の演奏家が、新進気鋭の小澤征爾の指揮ぶりや人間性を不満として演奏会をボイコットして
マスメディアを賑わした出来事があった。

そこで、N響の特権を保持している楽団員が衆を頼む傲慢により、才能ある逸材・小澤の前途を挫折
させるような愚を痛く悼んだ一人の衆議院議員がいた。その人こそ、後の大勲位・中曽根康弘であり、
この起死回生の演奏会を実現させた影のプロモーターであった。

人間中曽根の芸術への感性と審美眼は音楽のみに止まらない。絵画の筆を執り、おりに触れて心を
打つ多数の佳句を吟じ、また能文家でもある。

昭和17年1月、短期海軍主計少尉の時に、ボルネオ島付近でオランダ海軍の急襲で甚大な被害を
被った折に吟じた一句、

戦友を焼く 鉄板あつし 夏の浜

昭和19年(1944)、戦況厳しさを増す12月、小樽高商から短期の海軍航空少尉となった
弟の良介が決別の意を伏せて予告なく訪れた夜に、

木枯らしや 酌み交わしたる酒二合

昭和20年(1945)2月5日、敵機動部隊の接近の報で、空襲の被害を避けるため木更津海軍航空隊
から緊急発進して東海方面に向かった14機中、弟・良介の搭乗する1機が折悪しく吹雪に遭遇し
局ケ岳頂上付近に激突。
幾年か経た昭和54年(1979)に現地で合同慰霊祭をした折に、

老鶯や み魂守りて 三十年

昭和22年(1947)4月、衆議院選にて群馬三区で最高点(全国でも5番目の得票)で初当選。
全国最年少の28才。母の墓前に捧げた一句。

この花を 母にそえたき あやめかな。

昭和57年(1982)11月、国会議員として35年。第71代内閣総理大臣に就任した日の感慨を、

はるけくも きつるものかな 萩の原

そして、政権の座を降りた後、都下の日の出村の山荘にて独り静かに、

暮れてなを 命の限り 蝉時雨

今宵また 銀河を抱き 草に寝る

ねむり落つ 妻の寝息や 秋深し


カラッ風の吹く上州の材木商の息子が、軍人、官僚、政治家、大学人(拓殖大総長)と自ら多岐の
道を切り開いて歩んだ。

半生をかけた政治の世界は、人間の織りなす毀誉褒貶の一大曼荼羅であった。

国運を担い喫緊の要事に追われ怱忙の間に暮れる人生にあって、自らの哲学を持ち只管打座。
折に触れて俳句を吟じ心のゆとりを失わず、回顧録「政治と人生」を執筆する品格ある宰相の存在は
近年稀であり、常に自然体のバランス感覚を持つ意義を示唆しているように思われる。


「第九」が万人に感動を与える由縁は、正に品格ある人生の喜びを歌い上げているからであろうか。

主要項目へリンク
表紙に戻る 勉強会丑エイトの頁 横八会員チャットの頁
八期会の頁 レクリエーションの頁 横八会員投稿の頁
八期会インホメーション 囲碁同好会の頁 横八会員自作のHp頁
ゴルフ同好会の頁 母校、朋友会の頁

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その2.

歴史探訪             
                     史実の語るもの


時の流れの中で、歴史上の事実が時代背景の呪縛から解き放されて、それに基づく立証研究が
進むにつれて学会の定説も書き換えられてより客観的な真実の姿が顕れてくる。

その地道な研究に取り組んでいる研究グループの一人・近代史の泰斗・茂木弘道先生より、
英文で世界に発信した至近の研究成果を頂いたので、添付して参考に供したい。

その主眼は、先の日中戦争を日本の侵略戦争とする学会主流派のこれまでの説を新たな視点から
見直した視点にある。

その論拠として、そのきっかけなった盧溝橋事件の事実関係について、

 @事件勃発の4日後に結ばれた現地停戦協定で、「(中国)第29軍代表が日本軍に遺憾の意を表し」、
  かつ「責任者を処分す」と言明していることから明かな通り、条約によって合
法的に駐屯していた
  日本軍に中国軍が違法な発砲をしたことが発端。

 
 Aこの紛争が本格戦争になったのは上海事件からであるが、中国正規軍がわずか4千の日
本の海軍
  陸戦隊に対して総攻撃をかけてきた。

 B当時反日的な論調を繰り広げていたニューヨーク・タイムスでさえも、
  「日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれていった」(8月31日)と報じている。

 Cソ連・英・米などの(軍事介入に等しい膨大な)軍事支援のために、戦いは泥沼化、長期化していった。
 
 D船津和平工作(昭和12年8月)、トラウトマン工作(〃12月)のいずれにおいても、

  日本は一片の領土要求も利権要求もしていないのが、侵略にあらざる証拠である。

 E国際法上は、条約に基づき駐屯している他国軍に違法に攻撃を仕掛けることは、それが自国内で
  あっても他国への侵略行為となるのは国際法の初歩。

 D従って、日本軍が中国の領土内で戦ったから即侵略であるとする定説は、短絡的で国際法を
  知らない解釈。

  
  E昭和15年4月29日付で支那派遣軍司令部から出された「派遣軍将兵に告ぐ」と題する小冊子は、
   日本が日中共存を目指していたことを明らかに示す資料である。

以上で指摘されている新たな認識の是非について、今後の更なる研究成果も併せて世の論議を喚起
するところであろうが、「真実は一つ」であり、それに近づく不断の努力を忘れてはならない。

いずれにせよ政治・外交の事情によるその時々の恣意的な歴史認識では、長期的な国益に資すること
には成り得ないように思われる。


The Second Sino-Japanese War: How, and with what purpose, did Japan fight?

  Moteki Hiromichi’s “China Caused the Second Sino?Japanese War” explains how
the Second Sino?Japanese War was a conflict caused by China, and how Japan was
dragged into a war she had not sought. http://www.sdh-fact.com/CL02_1/69_S4.pdf
  During the war, Japan never made any territorial demands, nor did she make any
demands on interests in China. This is made clear from the Funatsu Peace Initiative
(Aug. 1937), the Trautmann Peace Initiative (Dec. 1937), etc., wherein no such
demands are made.
  Well, then ? with what goals and with what manner of policies and spirit did the
Japanese military fight? There is a suitable document to show this. A booklet dated
29 April, 1940, titled “Orders for Officers and Men of the Expeditionary Force,”
issued under the name of Itagaki Seishiro, the China Expeditionary Army’s chief of
staff elaborates these. Valuable material for knowing the nature of the war.

* Summary: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/70_S2.pdf
* Full document: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/70_S4.pdf
 
Questions are welcome.

Sincerely,

MOTEKI Hiromichi
Deputy Chairman and Secretary General for Kase Hideaki, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact