横八会員投稿 No.425

題名:関東大震災の鎌倉
投稿:伊藤 博(7組)
掲載:2010.03.01

湘南地方は三方が海に囲まれています。昔の記録を尋ねると津波に襲われたことがあるようで油断が出来ません。
鎌倉長谷の高徳院の大仏は、室町時代の大津波で建物が全て流されて、それ以来露座まま現在に至ると聴いています。
関東大震災に伴った鎌倉の津波被害の写真を添付しました。多分横須賀も大きな被害が出たはずです。

                      関東大震災の鎌倉

津波は熱海・伊東以南の沿岸を浸して北上し、小田原付近で東へ折れ、鎌倉に襲来したと考えられています。
それによる被害は小田原・大磯辺では軽微で、伊豆・鎌倉方面は大きなものであったといわれます。
『鎌倉震災雑誌』は各地の津波の高さを、房州洲の浜8.1m、葉山5.4m、小坪7.1m、吉浜8m、熱海6.5mと推定し、
当時鎌倉町に来襲した津波は小坪よりも1mを超過していたと伝えています。流失家屋は、坂ノ下53戸、長谷30戸、
乱橋材木座(現在の材木座と大町・由比ガ浜等を含んだ地域)30戸で、計113戸に過ぎず統計上からみれば僅少ですが、
倒壊した家屋の下で溺死した人は少なくなかったといわれます。

津波による鎌倉の被害の状況は、写真によってその惨状をうかがい知ることができましょう。(『鎌倉震災雑誌』より)   
  

                                                   浪川幹夫             
 

        写真1 七里ヶ浜の惨状 『関東大震災写真帖』日本連合通信社 大正121128

     写真の解説には「鎌倉、江の島間に於ける行楽の地たる七里ヶ浜も図の如く県道の石垣崩壊し、
     一時は交通杜絶するに至れり 左手に見ゆるは江の島なり」とあります。地震と津波の両方の被害を
     受けたも
のと思われます。

     写真2 絵葉書「大正十二年九月一日 鎌倉大震災の惨状 由井ヶ浜つなみの跡」中田孝信氏蔵

      前回紹介しました写真1の同じ場所を、別の角度から撮影したもの。洋風の建物がほぼ全壊し、
      その前には瓦礫の山が築かれています。

                  鎌倉・七里ヶ浜の津波の跡

        
              神奈川県立歴史博物館蔵 『神奈川県震災誌』から

追伸

 三浦の津波被害の記録です。

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独立行政法人・海洋研究開発機構理事、元東京大学海洋研究所教授 末廣 潔氏の研究によると、横須賀と
三浦半島の(江戸時代の始まる)1603年以前の地震津波被害については、(かなりの寒村であったので
全く記録が残されていない。この年以後、今日までの400余年間に横須賀と三浦半島で地震と津波の被害で
人が死んだことは3度。

元禄16年(1703)の元禄南関東地震、安政2年(1855)安政江戸地震、および大正12年(1923)の関東震災である。

古文書や寺院過去帳の調結果では、横須賀市公郷町6丁目の妙真寺の過去帳に元禄地震(1703)による6人の
死者の記録あり。
当時の過去帳を持つ寺院は横須賀市内に14箇所(いずれも東京湾に面した平野に位置する寺院)あるが、内、
5箇所の寺院に合計11名の死者の記録がある。

安政(1855)江戸地震では、「浜浅羽日記」に現在の三浦市の「上宮田御陣屋(三浦海岸駅西すぐ)あらかた潰れ、
即死六人」計16名の死者。浦賀地区で二名の死者との記載がある。海沿いの金沢区、夏島、本町、久里浜にも死者が出た。
松輪の福泉寺の記録によると死者26名と記録されている。

元禄と関東の地震時の津波は同じパターンと言える。

703年の地震は、スマトラ地震級の津波が日本でもあったと予想される。

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