丑寅エイト No.94

題目 三浦一族
    その1. 三浦一族の日本史の中での役割
    その2. 全国の三浦さんを訪ねて

講師 梶川 諭君 (1組)そして後半バトンを受けた伊藤 博君(7組)が続きます。
日   2008.11.27
総員 約25名


先ず梶川 諭君の話から

梶川君は三浦一族という言葉が大好きだそうです。
そこで書物、文献を調べたり、インターネットや関連箇所に問い合わせる等で三浦一族や三浦という姓
に関し様々な史実を学び、今回はそのご披露です。

話は三浦一族の発祥から始まり、三浦半島のみに留まらず広範囲に及んだ一族の勢力範囲、
衣笠城の由来、一族の光芒など多岐にわたり、後半は三浦姓の他、我々の姓の日本国内の分布
状態や分布に至る歴史に関し話は拡がりました。

                      
 梶川 諭君のショット

    

梶川君の講義のレジメは以下の通りです。
    
 

     

次に三浦という姓の日本国内における分布に関しインターネットの検索の結果を示してくれましたが、
なぜか本州の北端ともいえる地域に多く、其の由来等から我々日本人の姓の発祥まで話は
拡がりました。
梶川君が引用した三浦姓に関するURLは、他の姓の場合にも利用範囲があるので近藤の独断
により掲示させて戴きます。
                    三浦姓世帯数、分布範囲

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伊藤 博君の講義

そして後半の30分、講義は梶川君から今回丑寅エイトに初出席の伊藤 博(7組)にバトンタッチされ
議題は続きます。
伊藤君は江戸時代、栃木県壬生での三浦一族の業績と、その後この地を引継いだ徳川家康の重鎮、
鳥居元忠の歴史を話してくれました。

以下伊藤君から(補足)として送られた原稿を掲示します。

    (補足)     江戸時代の三浦氏

時代は下って江戸時代にも三浦氏は大きな足跡を残している。

下野・壬生は、日光東照宮への例幣使街道の護り。
また、幕府が東北の外様大名への睨む要所でもあった。

元禄5年(1692)、三浦志摩守正次が島原の乱の戦功により壬生城主に封じられ、
安次、直次の三代にわたり約53年間善政を行った。

その第一に上げられるのは羽生田峰山の掘割り堀切の大工事を行って水害を防止して
増田を計ったことである。

従来壬生の西部を流れていた黒川を、堀切を通して東に流れを変えて、多年の洪水による
災難を軽減し、多くの良田、良畑を殖したこの画期的な大工事は、新たに見地を行い増収を
計ったこと併せて現在でも高く評価されている。
 

その後、さらに時が過ぎて、正徳2年(1712)に至り、譜代大名の鳥居氏が江洲・
水口から壬生城主に移封され、爾来維新(1868)まで157年間を統治した。

鳥居氏は、前領地の水口で生産されていた「干瓢」に着目し、これを壬生にて栽培を奨励し
それが成功して、現在、栃木名産物として全国の「干瓢」の9割は壬生産である。

この栽培が成功したのも、実は、三浦氏の治水事業の恩恵であったことは言をまたない。

因みに、各藩とも治水には悩まされ最大の関心事であった。
他の事例を紹介すると、

忠臣蔵の悪役・高家筆頭吉良上野介は三河の吉良城主であった。
治山事業に注力して、現在でも残る「吉良堤」を築き善政を行った。
郷土玩具「赤馬」は、吉良の殿様上野介が赤い馬に乗って堤をしばしば巡察した故事から
生まれたもので、地元では名君であり、忠臣蔵の上演は決して行われたことがない。
 

同様に、三浦氏の壬生における治水成功の恩恵は今も脈々と生きているのである。

(付) 伊藤君のデジカメショットは話を聴く方に捉われ撮り忘れたました、失礼しました。 (近藤)

横八Hpのトップへ戻る
丑寅エイトの一覧へ戻る