横八会員投稿 No.211

題名  歴史探訪 坂本龍馬を斬った男
寄稿者 伊藤 博 (7組)
掲載   2007.12.19

           歴史探訪
坂本龍馬を斬った男


学僚の吉田章一先生は本学のお笑い講座をはじめ学外の文化講座にても落語と江戸風俗を講じる人気講師
ですが、実は赤門出の船舶海洋工学の英才で原子力船の泰斗。


先生が長年にわたり自らの家系を調べたところ、係累に坂本龍馬を斬った人がいたことが判明しました。

先生は、大学時代より落語研究会(芸名、牡丹亭胡蝶)にて3代目三遊亭小圓朝、7代目春風亭小柳枝、
三笑亭夢楽等から稽古を受け、歌舞伎研究会にても、常磐津は5代目常磐津文左衛門(20年)、常磐津菊三八
(10年)合計30年師事。両師匠の追善(平成14年)で、常磐津津太夫(重要無形文化財総合指定保持者)
の三味線で『夕涼三人生酔』を独吟したマルチ人間。


これまで、横八会HPに坂本龍馬に纏わる話題を寄稿してきましたが、その関連として、今回もご参考までに、
HP・
 「吉田章一の世界」 : 
 http://www.asahi-net.or.jp/~wb9s-ysd/ から下記をご紹介しましょう。

吉田章一先生のご母堂は幼時に両親を亡くしたため、母方の大叔父に引き取られて育てられました。
大叔父は岡山で材木屋をしていましたが、その妻女の実家の父は元岡山県の役人で手代木(てしろぎ)
直右衛門勝任といいました。

この人は江戸時代に会津若松で松平容保家若年寄をし,明治維新後に岡山県に奉職しましたが、
その弟が坂本龍馬を斬ったといわれる佐々木只三郎です。
直右衛門・只三郎両人の父親は会津藩の与力であった佐々木源八といい、長男直右衛門が手代木家を
継ぎ、次男主馬が佐々木家を継ぎ、三男只三郎は父親の実家で縁戚関係にあった江戸の御家人佐々木家
に養子となりました。


幕末には主君松平容保が京都守護職となったので直右衛門も京都にいました。只三郎は、将軍警護の
ために文久二年にできた浪士組の取締付となり、文久三年上洛する将軍家茂について京都に赴きました。
さらに見廻組与頭(くみかしら)(役高千石)に昇進します。
慶応二年孝明天皇が崩御され、将軍家茂も亡くなりました。


慶応三年十一月十五日、坂本龍馬が土佐藩邸前の近江屋にいることを知った只三郎は、輩下の
渡辺吉太郎、今井信郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎とともに近江屋に押し入り、
中岡慎太郎と一緒にいる坂本龍馬を斬りました。龍馬は即死し、中岡は一命を取り留めますが翌々日
落命しました。 


誰が襲ったかは当時不明で,新撰組の仕業ではないかとの噂も流れましたが、明治三年刑部省に
今井信郎が申し出て、この七人が襲ったことが知られました。
慶応四年正月三日に只三郎は鳥羽伏見の役に四百人の見廻組を率いて参戦し、六日の戦いで銃弾が
当たって紀三井寺に逃れ、ここで亡くなったことにされています。


直右衛門は会津に帰ったのち会津若松城の戦で、敗戦の使者に立ったと伝えられます。明治三十七年まで生きた直右衛門は『会津剣道誌』に、只三郎が実は明治二十年まで生きていたと書き残しています。
 

なお、吉田章一先生の母の養母の弟であった收は手代木家から太田家に養子に出て、東大卒業後
山一証券に入り、社長になった太田収です。鐘紡新株相場に失敗して昭和十三年自殺しました。
この人のことは、山岡荘八も伝記を書いており、獅子文六の小説『大番』に登場します。收は鐘紡
の中国進出を支援する考えで株を買い進めたのですが、シナ事変の勃発で鐘紡の中国進出ができなく
なって、新株発行が中止されたといいます。

                          完

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