横八会員寄稿 No.194

題名  三浦半島と会津の絆
寄稿者 伊藤 博 (7組)
掲載  2007年9月19日

歴史探訪
 三浦半島と会津の絆

三浦半島には会津藩士の墓が多数残っているが、幕府から江戸湾防備を命ぜられ、
三浦のみならず房総も含めて駐屯した名残であることは、添付の表(江戸湾防備の諸藩)
の通り夙に知られている。

然し、三浦と会津の両者の絆は古く、平安末期から南北朝時代にまで遡ることを知る人は少ない。

会津の夜明けは、相模湾沿いの葦名(芦名)氏の7代直盛が康暦(1379)に会津に
下向した時からはじまるとされる。会津に今も残る、「葦名御廟」、向羽黒山城(国史跡)等の
歴史遺跡や、会津を代表する産業の漆器の始まりもそのころまで遡るようである。

参考までに、この関連資料として今回紹介するのは、河野十四生氏(房総半島会津藩士顕彰会
事務局長、元読売新聞社新聞監査委員、元福島民友新聞社郡山次長)が福島民友新聞に連載
(平成17年11月平成18年3月まで12回)した「士魂は何処へ江戸湾防備の光と影」である。

ご高覧までに、そのシリーズから平成8年2月23日付(第8回)分を添付します。

因みに、会津藩は、幕末の60年間で、京都守護職を含めて通算39年間もの長きにわたり
沿岸警備や治安維持を担当させられた。駐屯藩士は1
,600人。江戸湾防備では200から
1000人に及び、その他に蝦夷地防備(8年間)も命ぜられ、その費用は莫大であった。

会津藩27万石の年間収入は、72,600両[宝永6年(1709)頃]に対して、
借財は64
,900両(凶作、大火などが重なり)。文化元年(1804)には、648,900両
もの巨額の借財を抱えていた。現在に換算すると、一両を8万円として、58億円の収入に対して、
19倍の519億円の借財で、もはや藩財政は完全に破綻していた。

この状況下で、9代藩主松平容保は、家老等の猛反対を押しきって領民を犠牲にし、
幕府に忠誠を誓い、戊辰戦争になだれ込み、悲劇に続くのである。

河野氏はこのあたりの事情を精緻に実証し解き明かしている。一読に値します。

最近封切られた映画・「バルトの楽園」は、第一次世界大戦のドイツの捕虜を収容した徳島の
坂東捕虜収容所における感動的なエピソードである。

その当時の収容所長が、負けた弱者の捕虜を人道的に扱い、捕虜と地元との麗しい関係を築き、
日本で最初に「第九」を演奏で応えたことでも知られている。

その所長こそ、実は出身が会津藩士。幼少のころの維新の逆賊として迫害された体験から、
捕虜に対する思いやりのある扱いを実践したことが感動を呼ぶのであろう。


        

         

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