丑寅エイト No.77

講師  下里一也 (7組)
題名  指揮官
開催  2007.07.26
総員  約25名

下里君は防大卒、陸上自衛隊の元佐官。
彼は防大時代の教材から日本陸軍戦史中,壮絶かつ悲劇的な戦いのひとつとして数えられる
「拉孟守備隊の戦い」における同守備隊長・野砲第56連隊第3隊長の金光恵二郎隊長を例に指揮官
の在り方の一例を語ってくれました。

 

私は「拉孟守備隊の戦い」の知識が疎いため、彼の講義を今一度復習しました。

1.拉孟の場所と背景
  * 拉孟(ラモウ)は中国南西部の雲南省の南北に貫流する大河・怒江の西岸に位置し、
    中国雲南省の主要都市・崑明(クンミン)とビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)を
    結ぶビルマ公路の要衝。下図の矢印で示す場所。
  * 怒江が形成する大峡谷には恵通(ケイツウ)と呼ばれる唯一の架橋があり、中国包囲軍
    は既に渡河、背後には蒋介石総統下の膨大なる中国軍が待機し、守備隊の息の根を
    止めるべき壊滅の時期を伺っている。

       

2.守備隊の結末と今回の首題
  開戦当所の破竹の勢いで進軍を続け、元々が貧弱な武器にも関わらず伸びきった最前線、英、インド、
  中国軍の想定を上回る抵抗と反撃。
  敗戦の色濃い昭和19年、補給路も絶たれ孤立した最前線の要地<拉孟(ラモウ)>の死守を命ぜられ、
  限られた兵力、武器、食料という状態で圧倒的な兵力と武器を有する中国軍に包囲されながらも、
  昭和19年6月2日〜9月7日の120日間の長期にわたり陣地を死守し全員玉砕。
  この戦いの守備隊長・野砲第56連隊第3隊長の金光恵二郎隊長の極限状態に置かれた中での優れた
  リーダーシップについて語ってくれました

3.両軍の兵力差
          日本軍拉孟守備隊                  中国包囲軍
  

両軍戦力の比較
日本軍守備隊 中国包囲軍 単純対比
兵力 1,290人 48,500人 1/37.8
火砲 各種合計12門 同じく441門 1/36.8


     ご覧の通り両軍の戦力は数の上では比較にならない。
     日本守備隊員の中には傷病兵も兵力に数えられ、武器においては欧米製の中国包囲軍に
     比較し、日本軍の武器は旧式で性能面の劣勢もひどい。 

4. 上記の状況下に、拉孟陣地の死守に従事する金光守備隊長の人となりを話してくれました。
   その中からいくつかを挙げると、
   
   1.彼は当時の年齢47歳、陸士卒ではない叩き上げの佐官である。
   2.緻密な計画、努力家、穏和な性格、命令だけではなく自ら率先し労務も厭わず部下の信頼が
     絶大であり、戦闘中は危険を顧みず部下を陣頭指揮、激励し続けた。
   3.彼が当要地の守備隊長に赴任後、限られた条件下に圧倒的な敵と対比する防御策としては
      * 陣地(掩体・ホウタイ)構築の強化
      * 地下壕の整備
      * 作戦的には、命ぜられるまで発砲するな、敵を出来るだけ寄せ付け一斉射撃の徹底。  
        その他色々と話してくれました。
     詳しくは下記の検索によるホームページをご覧下さい。  

金光恵次郎検索
その1
その2


5. 彼の講義が一段落した頃、次の質問が出ました。
    
   * 時代環境が一変した現代、防大で「拉孟守備隊の戦いと金光守備隊長」の話は、何を目的に
      取り上げるのであろうか。また学生たちはどのように捉えるのであろうか。

     いろいろな意見が出ましたが時間切れ、多分二次会の席でも議論は続けられたと思いますが、
     私は二次会は欠席しました。

付 
   「拉孟守備隊の戦い」に関しては、下記のホームページに詳しく記述されています。 
                       拉孟守備隊の戦い
   インパールの戦いは有名ですが、当戦いはさらに悲惨な戦いとして日本史に刻まれなくては
   いけません。                                                      

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