横八会員投稿 No.70 

投稿者 伊藤 博(7組)

タイトル その1.飯岡助五郎がなぜ悪玉にされたのか?
     
   その2.横須賀・公郷地区の地名の変遷

   その3.猿島の歴史

記載  2005.11.03


その1.飯岡助五郎がなぜ悪玉にされたか?

 

伊藤実著「飯岡助五郎正伝」並びに「飯岡助五郎新説天保水滸伝」(崙書房)から
要約すると、助五郎が悪玉にされた経緯は以下の通りである。

江戸時代の関東地方の農村は天領、私領、寺社領が複雑に入り組んでいて、犯罪者は
すぐ支配の違う領地に逃げ込み、逮捕が容易ではなかった。そこで、文化2年(1805)
関東取締出役(8名・通称八州回り)の制度が出来た。これは、士分は低いが特別機動部隊
のような役割を果たしていた。2人一組で村々を回るが、地理に暗いので道案内人(村役人)
に案内させた。

然し、村役人では無宿者や博徒に睨みが効かないので、要所要所の博徒の親分に道案内人
として村が十手を預けて犯人逮捕に協力させた。この「毒をもって毒を制す」やり方が、
権力と地方のボスとの腐れ縁の元になった。

 

飯岡村は、旗本大岡紀伊守の知行地で、助五郎は銚子飯沼陣屋から十手取縄を預かり、
二足(正確には下記の三足ともいえよう)わらじをはく親分になった。

  ・正業は網元  土地の人々の実生活に影響する。
  ・貸 元    渡世人を支配する。
    ・十手持ち   近郷在住の治安を取り締まる。

助五郎が、後世になって悪評を残した原因の一つは、この二足のわらじのためであった。

道案内の報酬は村によりまちまちで割に合わなかったので、縄張り内の賭博の開帳は黙認された。
小者の中には、犯罪がおきると、お上に取りなすと称して食いものにする輩もいた。 

講談「天保水滸伝」は、宝井琴凌(後の三代目宝井馬琴)が嘉永3年(1850)下総一円を
巡業した折に助五郎と繁蔵の行状を聴いて講釈にし、江戸に帰ってから、侠客ものとして発表
して爆発的な人気を博した。(地元の飯岡で発表されたのではなかった)

時代は、黒船の出没や大飢饉、それに伴う大改革の断行など、幕藩体制が大きく揺らぎ
始めるころで、幕府の無力に乗じて博徒が横行、縄張り争いの大喧嘩、博打打ちの戦国時代。
そこで、講談として当たりを取るには、

第1に、日本人好みのストーリーは悪玉と善玉をはっきりさせること。

第2に、主人公は若くて「反権力のヒーロー」でなくてはダメ。
    
助五郎より繁蔵の方が遙かに若いし、大利根河原の決闘で笹川方が勝っていると
       いう事実があるので、繁蔵が強かったとすることも出来る。
       渡世人の間では評判の良くない二足のわらじを履いていた男、助五郎と戦ったのだから、
    これぞ反体制のヒーローといすることも出来る。

第3に、主人公に悲劇性が必要。
       最後に繁蔵は暗殺されるという悲劇性もある。
       対する助五郎は、年はとっているし、十手持ちで体制側にあり、戦いに敗れて、
       自分の身内が繁蔵を暗殺したということから、後世まで悪玉にされてしまった訳である。

以上、「講釈師見てきたような嘘をつき」― 上手く虚実を取り混ぜて、仁侠・義理を強調
して面白く脚色し、侠客・股旅ものの元祖として新風を吹き込んだものである。

天保11年頃になると、助五郎も関東屈指の親分になっていたが、近隣の親分からは二足の
わらじでお上とつるんで勢力を伸ばしているとの「嫉み」があり反感を買っていた。隣接する
笹川繁蔵もその中の1人であった。

その繁蔵の実像を見ると、東庄町史に残る村役人差出文書に基づく、NHK―TV放映
「歴史への招待」(鈴木賢治)の解説によると、講談の「天保水滸伝の」中での仁侠の鏡の
イメージとはまるでかけ離れ、助五郎の縄張りを荒らしたり、闇討ちをしたり、徒党を組んで
ご禁制の長どすを差して歩き、あちこちゆすり、たかりをして、近郷近在の鼻つまみ、
嫌われ者であったようである。

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       その2.横須賀・公郷地区の地名の変遷

 飯岡助五郎の生家がある山崎(現在の三春町)の周辺の地名の変遷である。

    (出典) 伊藤実著 「飯岡助五郎正伝」(崙書房)より 


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          その3.猿島の歴史

 
記念館三笠の前に浮かぶ猿島は、横須賀人には慣れ親しんだ風景です。

猿島砲台(台場)が弘化4年(1850)に造られ、安政2年(1855)10月2日
の地震で被害を被った。更に、明治10年代にこの島が陸軍要塞となるまでは公郷総鎮守
春日神社が祀られていて、神聖な場所として人は住むことは許されなかった。

 

現在の春日神社は、三春町3丁目(旧山崎)の旧春日社遙拝所に移されている。

戦前には、田戸国民学校に入学したピカピカの一年生は、必ず春日神社(山崎)
に詣でてクラス毎に入学記念写真を写したが、元は猿島にあるのを知る人は少ない。

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