横八会員投稿 No.615

投稿者:伊藤博(7組)
掲載:2015年6月22日


歴史探訪

 

              風潮の浅流に阿ず

 

戦前「江田島」(旧海軍兵学校)といえば、英国の「ダートマス」(王立海事兵学校)、米国の「アナポリス」
(合衆国海軍兵学校)と共に世界の三大兵学校と称され、学力は旧制第一高等学校と同等レベル(「兵学校に落ちた
者が一高に行く」とも言われ)、率先垂範するリーダーを育成するエリート養成機関と位置づけられ、海軍将校を
目指す若者の憧れの地としてその名を知られていた。

 

 明治以来、日本海軍は諸外国の海軍と接触する機会が増えるにつれて、外国語教育が必要になり、中でも江田島で
必修科目として重視されたのが当時の海軍先進国の英米語であった。流暢かつ紳士的に話し書く能力を身につけて、
海軍士官としてどこに出しても恥ずかしくない英語を操ることが目標とされた。

 然し、太平洋戦争になると米英排斥の風潮が強まり、英語が敵性語として各方面で冷遇されることになった。

若き日に西欧各国の駐在を経験した兵学校校校長井上成美は、これを浅薄で軽率な風潮として憂い、良しとせず、
「自国の言葉しか話せない海軍士官など世界中どこに行っても通用しない」として英語教育を重視してその存続に注力した。

 外国語は海軍将校として大切な学術である。兵学校の教程で学ぶ程度の英語は学問ではなく技術である。外国語を
理解する力を持つことは、感覚を一つ余分に持つのと同様の利益があるとの認識に立ち、英語のセンスを磨く方法と
して生徒全員に英英辞書を貸与した事実は当時としては画期的なことであり、その功績は大きい。(徳川宗英著
「江田島海軍兵学校」)
 

昭和17年11月、井上が海軍兵学校校校長として着任した頃にはすでに日本海軍の戦力低下が明らかで、
日本の国力は枯渇し、井上自身は後1年程度で敗戦に終わると観ていた。

しかし、海軍の中央当局は士官不足を補填するため、兵学校3年間の修業年限を短縮(72期4ヶ月、73期8ヶ月)
卒業を決めた。この不見識な年限短縮に怒り、さすがに敗戦を予測していることは口外できなかったが、校長の権限で
職を賭しても反対して生徒を守ると密かに心に決め、学科内容を組み換え整理し軍事学は二の次にし、基礎学第一と
する大改革を断行した。

これは、生徒が卒業後、または在学中に戦争の勝負がつき、世の中に放り出されて方向転換を余儀なくされた時に、
学力さえあればなんとかなるとの先を見通した断行であった。(井上成美著「海軍兵学校と私」)

兵学校を卒業した生徒は少尉候補生となり練習艦に乗船して、軍楽隊の「Auld Lang Syne」(スコットランド民謡・
蛍の光の元歌)の演奏に送られて遠洋航海に出る。

江田島の教官から、敵性語追放の機運が高まる中でセレモニーにこの曲を演奏するのは好ましくないとの意見が出た。

井上校長は「名曲は名曲である。
敵味方を絶している」としてこの意見を退け、江田島では終戦の年まで演奏されたという。(徳川宗英著・前掲書)

時局に迎合することなく、独自の教育理念を貫いた井上成美は、昭和19年(1944)夏江田島を去り、
その後海軍次官となり太平洋戦争の終結や和平工作に力を尽くし、昭和20年(1945)5月海軍大将に就任。
その3ヶ月後に終戦を迎えた。

最後の海軍大将井上成美は、戦後横須賀市の自宅で英語塾を開き静かな余生を送り、昭和50年(1975)
12月86歳の生涯を閉じた。

嘗て、高校の同窓会の有志が旧井上邸を探訪した紀行文を読んだ折に、同窓生の中に元井上大将の私塾で英語を学んだ
者がいたことを思い出している。本夏もまもなく終戦記念日が来る。


参考:
横八Hp 2004年6月5日横八丑寅エイト&レク、
旧横須賀海軍鎮治府長官官舎及び井上茂美邸訪問写真  
 

 

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