横八会員投稿 No.508
投稿:近藤礼三 (6組)
題名:兵どもの夢の跡
掲載:2012.4.16

           兵どもの夢の跡

戦後、テープレコーダーの東通工という名でスタートし世界をリードしたソニーの頭脳であるソニー研究所は、
道路交通情報でお馴染みの新保土ヶ谷インターチェンジの脇に位置し、我が家から程近い距離にあります。

昭和20年代、ワンマン道路と言われた横浜バイパスの計画に合わせ、富士を遠望する当時は山林に囲まれた
閑静のこの地を、ソニーは企業の将来を担う研究を行うに相応しい場所として選び、壮大な研究所を
建設しました。

景勝,閑静の代名詞の横浜の陸の孤島の一帯、ソニーは研究所への道路として横浜バイパスに自社専用の
インターチェンジを設け、浮世から格別したソニー研究所ならでの世界に冠たる数々の製品を産み出し、戦後の
我が国の発展に貢献したことは言うまでもありません。

その中には昨年9月の丑寅エイトで「世界を変えた1枚のデイスク」というタイトルで話してくれた9期の
中山正之君も当所で、あの世界に冠たるフロッピーデイスクの開発に取り組んだことでしょう。

地図上の直線距離では横浜駅まで5キロ、横浜バイパスは眼の下、横須賀線と相鉄線のいづれの
駅までは約3キロ、近くには保土ヶ谷公園、横浜カントリーは緊急時の避難場所といういうこの地域、
私が当ソニー研究所の敷地から西に広がる大造成地の一区画を買い、家を立てたのは今から37年前でした。
最寄駅までの足が問題だというマイナス要素は、マイホームに憧れる気持に打ち消され、私達家族は
この地に念願のマイホームを作りました。

しかし現実は将に横浜チベットそのものでした。
交通の不便さは家族を悩ませ、私のバイク利用のきっかけとなりました。
さて、当地のチベットらしさは約25年程続きましたが、10年程前に横浜環状2号線経由の東戸塚駅へのバス
路線が生まれ、僻地性は多少は改善されチベットから山麓へと下ってような次第です。

さて、ソニー研究所を我々庶民には関係のない閑静の城のような存在として長年通りすがりに眺めていました。
門外漢は当然ながらシャット、しかし年に一度ソニー製品のバーゲンが行われ、私も数回ゲートを通ったことが
ありますが、売れ残りで魅力が薄く、そのくせ値段もあまり安くないため一度も買ったことはありませんでした。
ソニーの品は他のメーカーの商品に比べ値引き率が低いというのが常識として長らく通用していたのです。

我ら近隣住民が「ソニー研究所」が近々空き地になるぞ、という噂がが耳にしたのは15年程前頃でした。
その頃は既に研究所というよりも倉庫として使われているような印象で、ソニーは施設を建て直すのでは
ないかとも思われましが、その気配は感じざれず、あるいは豪勢ななマンション群を計画しているかも知れない
とも噂もありました。

東京ドームの全域を上回ると思われる広大な面積ながらも、元々は 高低差30m程の傾斜のきつい谷戸。
ゴルフコースの打ち下ろしにぴたりでも、他の用途のアイデアは浮かびません。

一体この跡地は何に使われるのだろうか、ソニーはこの土地を既に売ったのかな?
いづれにしろ腕どころを拝見と地元は見ていましたが、既に10年以上も続いています。

この間に世界に冠たるソニーに陰りの兆候が現われて来ました。
ウオークマンはジョッブス率いるMac.のスマートフオンに敗れ、ゲームは伸びず、カラーテレビは韓国台湾勢に首位の座を
明け渡し、さすがのソニーも業績が悪化し、人員整理も現実となりました。

毎年のこの時期になると、世界に君臨したソニー、その製品を生み出した頭脳であったソニー研究所の
跡地に残された桜が満開の花を咲かせている姿を見ると「兵どもの夢の跡」の語句が浮かびます。

  新保土ヶ谷ICの藤塚出口付近に残るソニー研究所に向かう見事なアーチ橋とその先のゲート
  閉ざされたゲートの先には満開の桜が散りかけていました。
 

   施設は跡かたも残らず撤去され空地、この状態が10年以上も続いています。

 

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